「筋肉は筋肉それ自体を目的として鍛えられねばならない」三島由紀夫【名言ニュートリション】

ジム内で守るべき戒律は一つ

「何を目指してるの?」

トレーニングに励む男性であれば、こんな一言を浴びせられたことがあるだろう。今後、そんな問いを受けた際には、この言葉を堂々と朗誦しよう。「筋肉は筋肉それ自体を目的として鍛えられねばならない」と。

この言葉は、名門資産家の令嬢である鏡子の家に集う4人の青年を描く、三島由紀夫1959年の作品、『鏡子の家』(新潮文庫、81ページ)に記される一節である。4人の主人公の1人、自らの痩せた体に劣等感を持つ美貌の無名俳優である収は、ある日一念発起し、大学の先輩である武井に師事する。その初日、武井は喫茶店に収を連れて行き、シャツの下で筋肉をうごめかしながら、凄まじい勢いで「純粋筋肉」なる思想を展開する。

曖昧模糊とした思想を否定し、一般のスポーツを「もはや明日の文明に寄与するようなものは何一つない」(80ページ)と切り捨て、ギリシャ彫刻の理念になぞらえ、運動機能を超えた、筋肉の独立した美的倫理的価値の獲得を訴える。そのためには、「何の役にも立つべきではない訓練が必要であり、筋肉は筋肉それ自体を目的として鍛えられねばならない」と(原文ママ)。

古代ギリシャには、後世に残された彫刻が物語るように、筋肉礼賛の思想があった。労働を忌み嫌い、奴隷を労働に従事させながらも、身体の鍛錬には並みならぬ情熱を注いでいた。現在の「ジム」という単語は、古代ギリシャにおける若者の教育の場であったギュムナシオンに由来するが、この語には「裸で身体を鍛える」といった意味があった。裸での鍛錬には、肉体美の鑑賞目的があったと言われ、また、大半の古代オリンピック競技は、裸で実施されていたと伝えられる。

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即ち、美しい筋肉は、称賛の対象であり、羨望の的であったのだ。軍事的必要性が背景にあることも想像に難くないが、鍛錬により究極の肉体美を手にすることは、神に近付くことを意味していた。「筋肉は筋肉それ自体を目的として鍛えられねばならない」!

また、純粋筋肉からは異端だが、筋肉を「手段」として鍛える場合においても、ジムでは「筋肉は筋肉それ自体を目的として鍛えられねばならない」。とりわけ、競技力向上のための手段としてトレーニングを行う場合、競技動作とは切り離すべきである。

例えば、野球選手が、重いものを投げて鍛えようとして、ボールの代わりに砲丸を使ったりすると、フォームが崩れて技術が損なわれ、さらには怪我のリスクが高まる(石井直方、2008、『石井直方の筋肉まるわかり大事典』、ベースボール・マガジン社、234-235ページ)。全身の爆発力を高める、クリーンのなどのオリンピックリフトであっても、重量挙げ選手以外のアスリートにとっては、競技とは切り離された動作であろう。そう、「筋肉は筋肉それ自体を目的として鍛えられねばならない」のだ!

ジムに通う理由は何でもいい。純粋筋肉教徒でも異教徒でも構わない。だが、求める物を手にするために、ジム内で守るべき戒律は一つだ。「筋肉は筋肉それ自体を目的として鍛えられねばならない」のである!

文/木村卓二