「他人の人生に影響を与えられない人生なんて意味がない」(ジャッキー・ロビンソン)【名言ニュートリション】

黒人初の大リーガー、ジャッキー・ロビンソン(元ドジャース)の墓石には、こう刻まれている。

“A LIFE IS NOT IMPORTANT EXCEPT IN THE IMPACT IT HAS ON OTHER LIVES”
「他人の人生に影響を与えられない人生なんて意味がない」

2017年11月1日、ワールドシリーズの第7戦がドジャース・スタジアムでおこなわれた。3勝3敗で迎えたこの試合、ドジャースが勝てば1988年のワールドシリーズ優勝以来となる19年ぶりの快挙だったが、初回に先発のダルビッシュ有が打ち込まれてしまう。ダルビッシュは5失点で降板。何度かピンチを、先発のカーショウがマウンドに上がり切り抜けるが、反撃できずに、そのまま敗戦となってしまった。

ドジャースは、2012年にマジック・ジョンソンを含めたグッケンハイムグループに買収されてから、ワールドシリーズ優勝を目指し、多大な資本をバックにして戦力を充実させてきた。2013年から5年連続でナ・リーグ西地区優勝。しかし、チャンピオンズシリーズで敗れ、結果を残せなかった。今年は、プレーオフ以降を見据え、7月にレンジャースからダルビッシュ、メッツからグランダーソンを獲得して、チーム強化を図っていた。特に、2017年はジャッキー・ロビンソンが人種の壁を破ってメジャーリーグのグラウンドに立って70年という節目の年だっただけに、ワールドシリーズ優勝は悲願だったが、それはお預けとなった。

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ジャッキー・ロビンソンは、1900年の近代野球成立後、初めてメジャーリーグのグランドに立った黒人選手だ。それは1947年4月15日、ブルックリン・ドジャースのフランチャイズ球場であるエベッツ・フィールドでのことだった。当時のドジャースのGMだったブランチ・リッキーは、ニグロリーグを選手の供給源としてとらえ、黒人選手をメジャーリーグでデビューさせる機会をうかがっていた。何人もの選手が候補リストに上がったが、リッキーは首を縦に振らなかった。彼が求めていたのは、選手としての能力だけでなく、あらゆる差別、反発、反動に耐えられる忍耐を持つ選手だった。それが、陸軍出身のロビンソンだったのだ。ロビンソンは、マイナーリーグで1年過ごしてからメジャーリーグのグラウンドに現れるが、予想通りあらゆるところから反発があった。ドジャース内にも黒人の入団に反対し、移籍した選手さえいた。しかし、彼は忍耐を重ね、チームメイトからも信頼を得るようになる。

ロビンソンは、この年、ドジャースの優勝にも貢献して、新人賞を手にしている。リッキーGMのもくろみ通り、ロビンソンは、以降チームの中心選手として活躍し、ドジャースの黄金時代を支える柱となる。彼の現役時代は、10年間と長いものではなかったが、リーグ優勝を6度成し遂げている(ワールドシリーズ優勝は1回)。ドジャースにロビンソンが加入して強くなったことで、多くの黒人選手がメジャーリーガーとなる。

逆に、黒人の入団をためらったチームは弱体化することになった。最も黒人を受け入れるのが遅かった球団はボストン・レッドソックスだ。この名門チームは、1946年にア・リーグで優勝してから、20年にわたり低迷することになる。1959年にレッドソックス初の黒人選手パンプシー・グリーンがメジャーデビューして、全球団に黒人プレーヤーが所属したことになったのだ。

ロビンソンは、56年に引退する。その後、58年にドジャースは、西海岸に移転してしまうが、この球団が、メジャーリーグという大きな組織に与えた影響は失われていない。アジア人が「正式」にデビューしたのもドジャースだ。94年には朴賛浩、95年の野茂英雄が、メジャーリーグの扉をアジアに向けて開いたことは間違いない。

ジャッキー・ロビンソンの背番号「42」は、1997年にメジャーリーグの全球団の永久欠番になった(ドジャースでは62年に永久欠番になっている)。ストライキ問題など、メジャーリーグにも人気の波はあるが、ジャッキー・ロビンソンのメジャーデビューが、現在の隆盛の一因になったことは否めないだろう。

ロビンソンが影響を与えたのは、野球のことだけではない。当時、アフリカの優秀な若者をアメリカの大学に留学できる奨学金制度があった。その創設者のリストには、著名な黒人であるシドニー・ポワチエやハリー・ベラフォンテが名を連ねており、ロビンソンもその1人だったのだ。1959年に訪米した第1回奨学生の1人に、大統領の父親であるバラク・オバマ・シニアもいた。彼は、ハワイ大学で学び、アン・ダナムと出会い結婚。そうして授かったのが、第44代アメリカ大統領バラク・オバマである。

文・大西鉄弥