「性相近也、習相遠也」(論語)【名言ニュートリション】

漢字ばかりが並ぶが、誤植ではない。孔子の論語である。西洋言語が片仮名で溢れかえる今日に温故知新、東洋思想から学んでみたい。なお、本稿では、敢えて横文字の使用を控えてみる。

性相近也、習相遠也。
(『論語』陽貨第十七、白文二)

日本の中学校で教育を受けていれば、大半が国語の授業で学んだであろう『論語』。中国の春秋時代の思想家、儒教の祖である孔子の言葉を、後世の孫弟子たちがまとめた書である。孔子とその高弟、あるいは他の人物との問答によって、国家や社会の倫理、個人の道徳など、儒教の思想を伝えている。

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『論語』を構成する全二十編の一つに、「陽貨第十七」がある。「陽貨」とは、孔子の出身国である魯の実権を掌握し、後に追放された政治家、陽虎の別名である。「陽貨第十七」は、孔子を召し抱えんとする陽貨と遭遇するところから始まる。

その「陽貨第十七」の二つ目に記される言葉が、「性相近也、習相遠也」である。書き下し文は「性相近きなり、習い相遠きなり」など。「人間、持って生まれた能力は似たようなものであるが、学習することで生じる差は大きい」といった意味である。孔子が説いているのは、学問に関することである。だが、身体についても、全く同じことが言えよう。学識と筋肉は、鍛錬によって確実に向上するのだ。

この言葉の後には、「唯上知與下愚不移」という言葉が続く。書き下し文は、「唯、上知(じょうち)と下愚(かぐ)とは移らず」。これを「最高の賢者と最低の愚者は変わりようがない」と解釈すると、才能の差による越え難い壁の存在を認めることになり、「性相近也、習相遠也」の内容を部分的に否定する言葉となる。だが、「下愚」を「素質」が劣る者ではなく、学ぶことをしない「意識」が低い者とする見方も存在する。その解釈に従うと、前言「性相近也、習相遠也」からの一貫性が見えてくる。

健康増進と肉体改造の目的にとっては、どちらの解釈でもいい。才能、素質に恵まれずとも、努力をしない「愚か者」でなければ良いのだ。努力をすれば、仮に他人より秀でることができなくとも、自分自身を向上させ「相遠き」結果を得ることが可能なのだから。

文/木村卓二