日本トレーニング史<特別編>追悼・玉利齊様

日本のボディビル黎明期の立役者であり、育ての親である玉利齊氏が2017年10月15日、都内港区の病院にて肺炎のため亡くなられた。1933年2月、東京生まれ。84歳だった。

玉利氏は今年2月脳梗塞の疑いで手術をして成功。ところが胃に腫瘍が見つかり、薬物療法で治療中だった。14日、吐しゃ物が肺に入り、これが原因で翌15日、息を引き取った。誤嚥性肺炎だったらしい。

この1週間前、病院に見舞いに行って元気な玉利氏の姿を見たばかりだった。これまで携帯電話を持っていなかった玉利氏だったが、病院に入ったら必要になったということで携帯の電話番号を教えてくれた。数日して用事があって電話を入れたが出られなかったので、検査でもされているんだろうと思っていた。いま思うと体調が悪かったのだろうか。それにしても、恩返しもしていないのにこんなに早く……。本当に残念でならない。

私が玉利氏に接してきたのはわずか10年に満たなかったが、精神的に大変世話になった。ずいぶん前、私が理想を求めて武道教育の新聞を発行した。しかし、たちまち行き詰まった。

私を日ごろから見守ってくれていた玉利氏に会いに行くと、慈愛に満ちた笑顔でいろんな話をしてくださり「俺も行くから君も行け 狭い日本にゃ住み飽いた 海の彼方にゃ支那がある♪」と馬賊の歌を口ずさんで「男はロマンですよ。最近、それがわからねえ奴が多くなった。小利口な奴ばかりになっちまってね。男が何かやる時には笑いものになったっていいから、やろうと決めたことをやるんだ。何もかも覚悟のうえでやる。何があっても気にしなさんなよ」と元気づけていただいたことを思い出す。

玉利氏も早大時代に日本で初めてのボデイビルトレーニングのバーベルクラブをつくって、さまざまな中傷もふくめて苦難を乗り越えてこられた。だからこそ言えるアドバイスだったと思う。
玉利氏との出会いは、私が敬愛してきた故・森徹氏(野球振興会理事長)と木暮浩明氏(伊藤忠商事理事)の紹介によるものだ。

「君が安田君か。森君からよ~く聞いてますよ。いまの時代を何とかしたいと武士道教育の新聞を出してしまったんだってね。お金にもならねえのに、よほどの大馬鹿者しかできねえですよ」
と、大笑いされたものだった。そして「おい、飯でも食いに行こう」と誘ってくれて、レストランでいろんなことを質問された。いま思うと、私が何者なのかを見定めたかったこともあるのだろうし、どうやら栄達を考えない“大馬鹿者”が好きらしかったのだ。

玉利氏は早稲田大学政経学部出身で前出の森、木暮両氏は2年後輩。そしてともに柔道の後輩でもあった(森徹氏は早稲田大学高等学院時代に柔道で、早大では野球で鳴らし、卒業後は中日ドラゴンズ入団)。その森、木暮両氏のつながりだから私を信用してくれて、当時、専務理事をされていた日本プロスポーツ協会の「日本プロスポーツ大賞」選考会の立会人に任命してくれたこともあった。

同大賞は日本のプロスポーツ界全般を通じ、国籍を問わず、貢献度の大きい業績を残したと認められる選手・団体およぶ指導者に与えられ、内閣総理大臣杯と日本プロスポーツ協会盾賞状、賞金が授与されるもので、スポーツ報道を行なう在京のテレビ、ラジオ、新聞、通信社など54社のスポーツ記者の責任者で構成される選考委員によって選出される。

私はその開票立会人として、選ばれたスポーツ選手の名前を声をあげて読み上げていく役目を担ったのだ。また、総理大臣になる直前の安倍晋三氏のインタビュー実現の仲立ちをしてもいただいた。木暮氏から「学生時代から、僕ら後輩の面倒をよくみてくれ、親分肌で豪放磊落な人でしたよ」と聞いていたが、私も非常に世話になって、いくら感謝しても感謝し足りない。

こうした玉利氏の血筋をさかのぼると、やはり血は争えない。父の玉利嘉章氏は有名な剣道家。早稲田大学剣道部師範、全剣連副会長で、戦後、刀剣が海外に流出してしまうのを大いに危惧して、私財を投じて日本刀の保護に努め、ある国宝級の名刀も所有していた。

この名刀をボストン美術館が知って高額で買い取りたいと連絡がきたが、それを蹴って国立博物館にはるかに低い値段で渡したくらい反骨の人物。祖父・喜造氏は優秀な官僚だったがアメリカに留学後、官吏で栄達を求めず「日本の農林育成のための人材が必要だ」と、岩手に高等農林学校を設立。さらに地元の鹿児島に帰って鹿児島高等農林学校校長となって生涯を農林育成の教育に捧げたサムライだった。

「自分の道は自分で切り開け」という独立独歩の血筋だけに、玉利氏も祖父や父と同じ道を歩まず、日本のボディビル育成と健康とスポーツ振興に若くから身をささげた熱い人だった。

改めて熱きサムライに合掌。

文/安田拡了