日本トレーニング史⑧ 遠藤光男の出現

日本ボディビル協会のミスター日本コンテストは審査員に力道山や作家の三島由紀夫を招待したりしながら毎年、アクシデントもなく続いていった。

ミスター日本は第1回(1956年)が中大路和彦、第2回(1956年)広瀬一郎、第3回(1957年)宇土成美、第4回(1958年)矢沢正太郎、第5回(1959年)竹内威、第6回(1960年)金沢利翼、第7回(1961年)大門義信、第8回(1962年)名塚進、第9回(1963)金沢利翼、第10回(1964)梯政治、第11回(1965)多和昭之進と王者を輩出していったものの、1960年代後半になるとボディビル業界が低迷してきて、新たな巻き返しを必要とする時期にかかっていた。

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先に関西では全日本ボディビル協会があったが、ともに歩むべく日本ボディビル協会との統一を目指して話し合いの場が持たれるようになった。また地方のボディビル関係者との会話から、ボディビルの全国組織を作っていかねばならないという目的が生まれた。

このような状況のなかで1966年1月、日本ボディビル協会は第12回ミスター日本コンテストを開催した。場所は日比谷公会堂。観衆は3000人を超えるものとなった。

この第12回大会に掛ける協会の意気込みは大きく、全国組織として、もう一度スタートを切るという決意が大会の演出に込められていた。

ボディビルコンテストを格調高くするための演出の一つとして古代ギリシャ神話のリリーフを背景にコンテストが行われ、北海道から九州までのボディビルダーたちが参加して、ひと目で「全国組織」であることが分かるように演出されていたのである。

当時の記録では決勝審査員は八田一朗・日本ボディビル協会会長、田鶴浜弘協会副会長、バートン・E・マーチン協会技術顧問、河合君次協会顧問、平松俊男協会技術顧問、藤本憲治報知新聞事業本部長、赤嶺茂日本重量挙げ協会常任理事となっている。

八田会長は大会の挨拶で「全てのスポーツの基礎であるボディビルが、ここまで発展したのは喜びに堪えない。この先も全ての人がボディビルによって健康な体づくりをされんことを望む次第です」と話し、玉利齊協会理事長は「一国の文明の力強い発展は心身共に健康な国民のバイタリティーによるものと確信しております。今後ともボディビルを通して、明るく逞しい日本文化の創造に努力いたす所存です」と挨拶して、予選審査が始まり、そして決勝審査に入っていった。

決勝の審査は競技時間1分30秒、得点100点満点で、筋肉が50点、均整30点、ポーズ20点となっていて、ため息が漏れるほどの肉体を見せつけたのが東日本代表の遠藤光男だった。

入賞発表ではファンファーレとともに3位の神奈川県代表・中村鉄郎、2位の東京都代表・後藤武雄が発表され、ミスター日本に輝いたのは、やはり遠藤光男(身長170㎝、体重84㎏、胸囲125㎝、腕回44㎝)が選ばれた。遠藤は同時にミスターマッスル賞にも輝いた。

「ボディビルを始めた6年前、まさか自分がミスター日本になるとは夢にも思わなかった。ボディビルは弱い人を強い人にするスポーツです。この先自分は一生続けるつもりで、機会があれば外国のビルダーたちと体を競って、日本人の体格のすばらしさを世界の人たちに示してやりたい」と遠藤は喜びを語っているが、協会はその意気込みをくみ取り、遠藤を国際大会のミスターユニバース大会に送り込んだ。

文/安田拡了