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日本トレーニング史③ 窪田登と玉利齊の出会い




ウエイトリフティングの普及に努めた窪田登

敗戦の翌年(1946年)元旦。のちのボディビル先駆的指導者・窪田登は当時、岡山県倉敷中学(旧制)3年生。戦前に兄・誠一が肉体トレーニングで使用していたコンクリート製のバーベル22.5㎏で本格的にトレーニングを開始した。窪田は翌1947年の第一回関西重量挙選手権に中学生ながらライト級で出場し、いきなり2位になった。初出場初入賞だ。これがきっかけとなって岡山県代表で国体に出場。ライト級で3位に入った。

窪田は向上心の塊で、この頃、重量挙げの重鎮ともいえる井口幸男宅を訪ねて教えを乞い、また井口の紹介で重量挙選手権優勝者の谷本昌平と出会っていた。初めて出た関西大会で2位となったのは、競技前日に谷本からアドバイスをもらっていたのも大きな要因だったらしい。

窪田のトレーニングの基礎となったのはアメリカのボブ・ホッフマンの『ウエイトリフティング』若木竹丸『怪力法並びに肉体改造・体力増進法』だった。1948年、学校改革によって倉敷中学は倉敷高等学校になった。1949年に国体(兼全日本選手権)でライト級初優勝。1950年に早稲田大学入学すると、前述した井口の紹介で若木竹丸、大山倍達とも知り合い交流。1954年3月に卒業するまで明けても暮れてもウエイトトレーニングの毎日を送ったという。ただ、大学にはウエイトリフティングやボディビルの部もないため、大会には個人として出場。ウエイトリフティングのアジア大会にも日本人として初めて出場した。

窪田登(1951年当時)

そして1952年に日本で初めてのボディビル大会ともいえる「ミスター日本コンテスト」が開催された。その前日は国体のウエイトリフティング競技大会で、参加選手はウエイトリフティングの選手が参加。11の筋肉の発達を示すポーズのほかに自由ポージングして、採点された。窪田は前日のウエイトリフティング競技で優勝し、このコンテストでも優勝した。1954年にはアジア競技大会が行われ、窪田はライト級2位となった。

窪田は相模女子大学の事務局で働くようになった。1954年12月、新宿で偶然に早大レスリングの猛者で全日本王者にもなった永里高平(当時、テレビ朝日運動部)と出くわした。その時、永里は「いま早稲田でお前の小型のような体つきをした学生がいっぱい集まってバーベルを上げているぞ。責任者にお前のことを話しておくよ」と言った。

それから数日後、窪田のもとに2人の早稲田の学生が訪ねてきた。政経学部3年・玉利齊(現在、日本ボディビル・フィットネス連盟名誉会長)と理工学部4年・小林洋介と名乗った。玉利が口を開いた。

「早稲田の柔道場の一部を借りて昨年(1953年)バーベルクラブが誕生しました。現在、同好会として活動しています。先日、永里先輩から窪田先輩のことをお聞きして、さっそく挨拶にまいりました。いい運動なので、我々はこれを日本中に広めたい。ついては窪田先輩、週1回でもいいですからバーベルクラブのコーチをお願いできませんでしょうか」

早稲田のバーベルクラブ。聞けばレスリングOB平松俊男を中心にバーベル愛好者たちが集まってきて、玉利がキャプテンとして設立したクラブだった。

文・安田拡了