日本トレーニング史⑤ 三島由紀夫とボディビル




1955年12月9日、当時の厚生大臣・川崎秀二を会長、水町四郎、田鶴浜弘を副会長に、平松俊男が理事長、玉利齊、人見太郎ら8人が常任理事となった日本ボディビル協会が設立された。そして翌1956年に第1回ミスター日本コンテストが開催されるのだが、これについてはあとにして……1955年の夏、バーベルクラブのキャプテンだった玉利が作家の三島由紀夫にボディビルを指導することになったときのことを話そう。

三島はアメリカでボディビルというものがあることを知っていたが、週刊読売で早稲田のバーベルクラブで学生たちが体を鍛えている記事を読んで「これなら自分にもできるんじゃないか」と思った。そこで週刊読売に電話をして、代表の玉利に会えるかどうかを聞いた。玉利が当時を振り返る。

「バーベルクラブの記事を書いてくれた塩田丸男記者から連絡が入り、私の自宅の電話番号を教えたんです。すると、その翌日、さっそく三島さんから電話が入りました。第一声は大きな声で『三島です!』でしたね。日活国際会館の1階で会うことになりまして、確か三島さんは白いワイシャツのラフな格好でした。三島さんはちょうど1年か2年ほど前にアメリカ、ヨーロッパに旅行に行かれて、その途中、ボディビルの雑誌を目にして強い衝撃を受けた。三島さんは幼いころから体が弱かったですからね。体育なんかもやってみたいのに見学ばかり。いつも本ばかり読んでいて、小説家になる以外に道はなかったというんです。男としてのプライドはズタズタだった。だから自分で肉体をつくるということに相当な刺激を受けた。『日本の作家はせいぜいバーで酒を飲む程度。女と心中するか芥川みたいに自殺するのがオチ。自分は私生活は健全で、彼らのように精神まで虚構の中に浸って、虚構の中に自分を埋めることはしない』と言い切ってました。で、三島さんは『私でもボディビルを始めることができますか』と訊ねられた。『もちろんですよ』と答えたときの、三島さんの嬉しそうな顔はいまだに忘れられないですね」

玉利のマンツーマン指導が始まった。練習場所は三島の自宅だった。当時はまだ気楽に使えるようなジムがなかったためだ。玉利が自宅に行くと、三島はすでに海水パンツ一丁で玉利のくるのを今か今かと待っていた。三島の体を見た玉利は、あまりのか細い体に驚いた。玉利はさっそくトレーニングスケジュールを立てて、火曜日と木曜日に三島邸で指導した。半年が経つとだいたい体ができてきたため、三島の意向でそれ以後はジムで1人で練習をするようになったという。

三島由紀夫(左)にトレーニングの説明をしている玉利(右)

「三島さんはジャーナリストに三日坊主なるんじゃないかと尋ねられて『男が何かをやるとき、批判は覚悟。死ぬときも一緒だ。僕は英雄的行動ができる体になって見せる』とはっきり言われていました。三島さんは、貧弱な肉体を隠すこともなく、何事にも真剣に取り組む姿を見せていましたね。また、それから20年後に起こった三島さんの自決は全身全霊で自らの肉体と精神と生命を賭けたドラマ。天才芸術家の感性に行動家の肉体と精神が結びついて初めて可能だったと思います」

20年後の三島の自決はともかく1955年という年は三島由紀夫がボディビルを始めたり、日本ボディビル協会も発足したりするなど、日本のボディビルが未来に向けて羽ばたこうとしている記念すべき年だった。

文・安田拡了