日本トレーニング史⑪ドーピング検査導入の英断




1983年、JBBFの会長になった玉利齊は時代に合わせて女子の日本大会(ミス日本コンテスト)を開催して成功を収めていった(優勝は中尾和子)。

よくトップが変わった途端、会社が良くなったとか、悪くなったという話がある。つまり強運の人というのは必ずいるもので、おそらくこの時の玉利齊新会長がそうなのだろう。ミス日本の成功のほかに、玉利会長のもとには運を引き寄せるかのように次々と新しいことが舞い込んできて、それをうまく取り込んでいくことで日本ボディビル連盟は一気に生まれ変わっていくのだ。

小沼敏雄の登場もそのひとつかもしれない。小沼は1985年に初めて日本ボディビル選手権王者に輝き、1年をおいて1987年から1999年の13年間、連続で王座に君臨しつづけるという大記録を打ち立てた。93年にチャンピオンになった時など、大会4カ月前に大円筋を断裂。1カ月ほどトレーニングを休んで筋肉の修復を待ち、そのような状況下でも王座を手にした。また88、89年にはアジア選手権(ミスターアジア)で優勝している。

80年代が石井、小山、朝生の3人バトル時代なら、85年から90年代は小沼独走時代だったといえよう。そして運のひとつがIFBB世界大会の日本開催であった。

86年、IFBBからの要請で日本ボディビル連盟はIFBB世界大会を日本で行なうことになったのだ。参加国47カ国のIFBB世界大会。統一したばかりのJBBFとすれば大バクチだ。

しかし玉利会長はこの大変な日本開催の世界大会を足掛かりに飛躍したいと考えた。熟慮の末に出てきたのが、懸案だったドーピングテストの導入だった。当時はまだドーピングをやれば多くのボディビルダーが引っかかってしまうのではないかと疑心暗鬼の時代だった。それだけにドーピング導入は勇気のある行動だった。それをやってのけようと決断したのである。そしてIOCドーピング委員長の西ドイツ、M・ドニケ博士、IFBB医事委員長のB・ゴールドマン博士を大会に迎えた。結果、行政機関から健全なスポーツ団体として認められることになったのだ。
玉利齊がいう。

IFBBでもドーピング規制がなかったんですよ。それで、日本開催でいい機会だからドーピングルールを整備しようということになった。しかし、それにはドーピングに関して医学的な知識を持った権威が必要。そこで東大の黒田善雄教授に協力を依頼したんですよ。黒田教授はIOCのメディカルコミッティの委員として、ドーピングテストに関して国際的権威がありましたから。それとともに競技団体は当時、ドーピング規制の意識がほとんどなかった。日本ボディビル連盟がいち早くこれを推し進めたということにもなりますね。つまり、われわれがいち早くドーピングを導入することでスポーツ界だけではなく行政に存在価値を認めてもらうという目的もありました。おかげで厚生省、文部省、東京都の後援をいただくことができたんです」

ちなみに気になるドーピング結果だが、テスト導入なので参加者の10%にあたる30人を対象にしてドーピングテストを行い、うち12名が陽性となった。やはり!? という感覚だが、当時は「意外に少なくて安心した」というのが正直なところだったらしい。

さて、世界大会は資金的に心配された。しかし、国産プロテインを出した明治製菓や健康体力研究所のほかに森永製菓がオフィシャルスポンサーとして多額の協賛をしてくれることにもなった。森永は1983年に米ウィダー社と業務提携をしたが、この提携の仲立ちをしたのが玉利。それが協賛につながったことはいうまでもない。これら企業協賛によって大幅黒字にもなり今後の連盟運営の見通しが一気に明るくなっていくのだった。

文・安田拡了