プロアスリートから80歳超のおじいちゃんまで。みんなのパフォーマンスを挙げる「Matsuo method」の秘密に迫る②




研究を重ねて、ケガの予防、パフォーマンス向上につながる「Matsuo method」」を編み出した松尾祐介さん(WINNIG BALL代表)のインタビュー2回目。今回は学生、社会人時代のケガ、そして「Matsuo method」と誕生のきっかけが明らかになります。

怪我だらけの現役生活

甲子園出場を果たした兄の背中を追って市立柏高校に入学した松尾さん。生来の研究好きもあり、成績は常に学年トップ。野球でも内野と投手の「二刀流」とまさに文武両道の高校時代を過ごす。しかし、甲子園出場はかなわず。プロへの誘いもなく、卒業後の進路は市役所への就職を選んだ。しかし、松尾さんの運命は、ひょんなことから大きく変わる。

「採用試験は受かっていたはずだったんですが、事務的な手違いで不採用になってしまったんです」

時はいわゆる「就職氷河期」。しかし、このシャレにならない現実を前向きにとらえるのが、松尾さんのすごいところだ。自由放任主義で、万事口を挟むことのなかった両親の言葉が、松尾さんを再びプロ野球選手への道へ導いた。

「いまさら就活もできないだろうから。大学行けば」

まだ願書を受け付けている大学の中から、地元千葉の中央学院大を進路に選んだ松尾さんだが、入学時点では、野球を続けることは考えていなかった。

「たまたま、野球部の友達も受かったんで、入部したんです」

とはいえ、全日本大学選手権出場7回を誇る強豪。甲子園組を含む200人超の大所帯では最初はグランド入れてもらうこともかなわなかった。そんな中でも、わずかに与えられた打撃練習で猛烈アピールした松尾さんは、1年秋にはレギュラーポジションを取ってしまう。

「うちの大学はあまり追い込んだ練習はしないんで、自分でいくらでも自主練習できたんです。それが良かったですね」

2年に上がる頃には、プロのスカウトの視線を感じるようになった。獲得の意思を示してくれた球団もあった。

野球エリートがひしめく中でもレギュラーを張れたのはやはりトレーニングへの探求心あってのことだろう。高校時代から野球部には専門のトレーナーがついていたが、松尾さんは熱心に彼らの話に耳を傾けた。また、常にアンテナを張り巡らし、先輩のトレーニング論なども聞いた。

しかし、いよいよドラフトへの勝負をかける3、4年時にケガが襲いかかる。高校時代からの腰痛が再発したのをはじめ、様々な箇所に痛みが出た。

「ぎっくり腰にはもう40回くらいなっていますよ。徐々に悪くなると言うよりは、突然なるんですね。結局、ちゃんとした体の使い方をせずに強引にバットを振っていたので、無理が出ていたんです」

3年秋のシーズンにはボールが投げられない状態になっていたが、スカウトへアピールのため指名打者として強行出場。しかし、プロの目をごまかすことはできなかった。結局、大学でもプロへの夢はかなわず。それでも、社会人野球の名門、川崎製鉄千葉(現JFE東日本)に入社することができた。しかし、トレーニングを繰り返し、柔軟性がアップしたのにもかかわらず怪我が増えるという違和感をひきずったままの現役続行は茨の道だった。

川崎製鉄千葉時代の松尾さん

松尾さんが在籍した2000年から2004年、川崎製鉄千葉はまさに黄金時代を迎えていた。この5シーズンで都市対抗出場4回。2000年には4強まで駒を進めている。しかし、当人は最初の3年はケガとの闘い。毎日が治療で、それでも練習はしたいからと薬漬けになった結果、ついには神経麻痺で入院する羽目になってしまう。

「もう野球どころか、命にかかわることですからね。朝起きれないんですよ。それでいつも相談していたトレーナーさんに病院に担いでいってもらって、検査をしたんですけど、原因不明。結局、1週間ほど入院しました」

退院した松尾さんに会社が引退勧告を行なったのは当然と言えば当然だった。しかし、松尾さんは、病床で自分を見つめ直した結果、ひとつのヒントを見つけていた。

「なにもできないんで、いろいろ考えているうちに昔に戻ったんです。動物の動きとか、古武術であったりとか、そういうものに対する興味が復活したんですね。結局、体の使い方なんです。それが悪かった。いろんなトレーニング学ぼうっていうのが、逆の効果だったですね。当時はそれがわからなかった。それで、根本の部分を変えて出直そうって考えたんです」

幸い引退話は、若手選手が退社したことで枠が空き、撤回された。入社3年目のオフ、自分で試行錯誤しながらトレーニング方法を変えてみた。春が来ると自分の体が変わっているのがわかった。あれだけ悩ませていた腰痛はいつの間にか消えていた。「Matsuo method」が芽生えた瞬間だった。

社会人野球で初めてレギュラーポジションを確保した4年目は都市対抗出場を逃したが、その翌年、松尾さんは主力選手として東京ドームのフィールドに立った。同僚が応援してくれているにもかかわらず、試合にも出られず申し訳ない思いをしていたが、ようやく檜舞台に立つことができた。

しかし、このシーズンを最後に松尾さんは引退する。

「もうプロは無理だなって」

プロ入りを目指して続けた野球だったが、それが無理だと悟った瞬間、松尾さんの目は「その先」を向いていた。

(第3回に続く)

数多くのプロ野球選手を指導した松尾さんのジムにはたくさんのユニフォームが並ぶ

取材&文&撮影・阿佐智