鍛え抜かれた身体と、不屈の精神で頂点を目指すパラアスリートを紹介するこのシリーズ。今回は、ウィルチェアーラグビーの島川慎一が登場。マーダーボール(殺人球技)と呼ばれるほど激しい車いす競技を20年近く続ける島川の身体はいかにしてつくられるのか? そのプレー人生とともに探っていく。
もともとチームスポーツは正直嫌い
ウィルチェアーラグビーと出合って人生が変わった
――ウィルチェアーラグビーをはじめたきっかけを教えてください。
島川:21歳のときに交通事故に遭って、頸髄を損傷したことで四肢に麻痺が残り、車いす生活になったんです。車いすで陸上競技を少しやっていたんですけど、何となく体を動かしたいという程度で、何かを目指していたわけではありませんでした。しばらくして、友人に誘われてウィルチェアーラグビーというのがあるのを知って、見に行ったのがきっかけです。
――クラブチームの練習などですか?
島川:はい。福岡に住んでいた当時の話しですが、大分まで見に行こうと誘われました。その頃は個人競技の陸上をやっており、もともとチームスポーツは得意ではなかったので、渋々見に行ったのですが。そうしたら、車いす同士がガッチャンガッチャンぶつかっていることに衝撃を受けて。
――やはり初めて見た人は、みんなそれにビックリしますよね。
島川:ぶつかっていいんだ、と(笑)。病院とかで車いすがぶつかったら普通は怒られるじゃないですか。それが、ぶつかって相手を倒したら褒められるんですよ。今でも、大会では2コートで同時に試合をやることもよくありますが、コートサイドで片方の試合を見ているときに真後ろで「ガシャン」という音がすると、思わずビクっとしちゃいますからね。
――ちなみに、車いす生活になる前はスポーツはやっていたのですか?
島川:小さい頃にサッカーを少しだけやっていましたけど、それ以外は特に。正直、スポーツは嫌いでしたね。興味もなかったですし、人と関わるのもあんまり得意ではなかったので。陸上をやっていたのも、もちろん一緒にやっている人たちはいますけど、結局最後は自分ひとりの戦いというところがあるじゃないですか。
――それが、ウィルチェアーラグビーと出会って変わっていったわけですか?
島川:そうですね。ラグビーをやっていなければ関東に出てくることも、海外に行くこともなかったでしょうし。海外に友達がいるなんてこともなく、九州の片田舎でひっそりと一生を終えていたと思います。自分の世界が広がりましたね。
――関東に出てくるきっかけは?
島川:まずは仕事の面があります。当時は、関東のほうが就職しやすいのもあったので。加えて、ラグビーをやる環境が関東に集中していたこともあって。日本代表合宿に呼ばれ始めていましたけど、当時は交通費などすべて自腹だったんですよ。そういう環境も大変だったから、もう関東に住んじゃったほうがいいんじゃないかなと思って。
――BLITZというチームを立ち上げたのもその頃ですね。
島川:そうですね、何人かが中心となって。関東に出てきたときは既にあったチームに入りましたが、少し環境というか……人が作った流れに乗るというのがあまり得意ではなかったのかもしれませんね。だから、自分がやりたいように、自分が描くチームを作ってみようと思って。まさかこんなに何年も続くとは思いませんでした。
――国内では、日本選手権で8度の優勝を誇る強豪チームにまでなりました。
島川:スポーツ嫌いだった頃からすると、信じられないですよね(笑)。
★次回は、ウィルチェアーラグビー日本代表の成長について伺います。
取材・文・撮影/木村雄大
島川慎一(しまかわ・しんいち)
1975年1月29日、熊本県出身。バークレイズ証券株式会社/BLITZ所属。21歳の時に交通事故により頚髄を損傷し車いすの生活となる。1999年よりウィルチェアーラグビーをはじめ、2001年に日本代表に選出されて以降、アテネ大会から4大会連続でパラリンピック出場。リオ大会では初のメダルとなる3位に輝く。また、埼玉県所沢市を拠点とするチーム・BLITZを2005年に創設(現在の本拠地は東京)。過去、日本選手権大会で8度の優勝を誇る。