島川慎一(ウィルチェアーラグビー)③~日本代表最長キャリアを持つ男~【不屈のパラ戦士】

鍛え抜かれた身体と、不屈の精神で頂点を目指すパラアスリートを紹介するこのシリーズ。今回は、ウィルチェアーラグビーの島川慎一が登場。マーダーボール(殺人球技)と呼ばれるほど激しい車いす競技を20年近く続ける島川の身体はいかにしてつくられるのか? そのプレー人生とともに探っていく。
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初の世界選手権優勝
環境の変化がチームの強化につながった

2018年5月ジャパンパラ競技大会

――8月の世界選手権(オーストラリア・シドニー)では初優勝。どういう位置づけで臨みましたか?

島川:リオパラリンピックで初の銅メダルを獲りましたが、やっぱり悔しさだけが残っていたので、2020年の東京大会で金メダルを獲るために、ここで絶対に優勝しなければ次も金を獲れないという気持ちで臨みました。

――最高の結果となったわけですが、この大会を少し振り返っていただけますか。

島川: 12チームが参加して6チームずつにブロックを分け、総当たりの予選リーグを行いました。結果は5勝1敗。で、その1敗が開催国のオーストラリア、世界ランキング1位の国だったんです。その試合は相手の勢いとホームの勢いもあったし、自分たちも準備はしているつもりだったけど足りなかったのもあってコテンパンにやられてしまいました。それを経ての、準決勝のアメリカ戦、ここが大きなポイントになりました。

――51-46で完勝した試合ですね。

島川:アメリカには、大きな公式大会で勝ったことがなかったんです。でも、前日からずっと選手同士で話し合って対策を練ったことで、一度もリードを許さずに5点差をつけて勝つことができました。アメリカに対してそういうワンサイドゲームができたのは、他の国の試合でも僕は見たことがなかったですし、僕の日本代表としてのキャリアの中でベストゲームだと思います。

――決勝戦は、再びオーストラリアが相手でした。

島川:その流れがあったからこそ、決勝で勝てたんじゃないかと思います。ハーフタイムで4点リードしていましたが、後半に一気に6点奪われて2点リードされてという展開。シーソーゲームの中、最後の最後、残り6秒、1点リードのところでターンオーバー(攻撃中に相手にボールを奪われ、逆に攻撃を受けること)を取られましたが何とか防いで。これまでのオーストラリアと日本の戦いだったらもうあそこで同点にされていましたし、本当にギリギリの勝利でした。

――今回優勝できましたし、パラリンピックでは徐々に成績が上がってきています(アテネ大会:8位、北京大会:7位、ロンドン大会:4位、リオ大会:3位)。この要因はどこにあると思いますか?

島川:環境の変化が大きいと思います。競技人口も増えて国内のレベルも上がってきましたけど、スポンサーがつくようになって、競技団体からもある程度お金が出るようになりました。そのお蔭で合宿の回数や海外遠征の回数も増えてきて。やっぱり試合や練習をしてナンボ、というところがあるので、そういう環境ができてきたのが大きいと思います。

――アスリート雇用の選手が増えてきたのも大きいですか?

島川:そうですね。僕の場合は、通常勤務ではなく、週2回出勤して、あとは練習に充てられてその時間も仕事としてみなしていただいています。そういう環境にいる選手も増えてきて、より競技に集中できるようになってきました。

――選手同士が一緒にいられる時間も増えましたね。

島川:本当にそれは大きいと思います。今回の世界選手権の1ヶ月前に代表合宿を1週間行ったのですが、その後、何人かで話して出発前々日くらいまで、集まれる人で自主合宿を行いました。一緒にプレーする時間、一緒にいられる時間がすごく大事だなと改めて感じます。ちょっとした気軽な感覚で練習していたとしても、動きのパターンがわかってきてその後の攻略のヒントになることもあります。他にも、東京に練習施設として日本財団パラアリーナ(※)ができたことも。

――都内に拠点ができたことは大きいのでしょうか?

島川:パラアリーナができたことで練習環境が大きく変わりました。最近はここで練習してばかりですね。週に3、4日はここにいるんじゃないかな(笑)。それまでは栃木県の足利や、あとは埼玉県の加須や所沢だったので。関東一円にチームや選手が散らばっている中で、中心に位置する立地はチームの枠を超えてみんなが集まりやすいのです。

※日本財団パラアリーナは一般公開しておりません

★次回は、ウィルチェアーラグビーのここ数年の注目度の変化について聞いていきます。

取材・文/木村雄大 撮影/安多香子

島川慎一(ウィルチェアーラグビー)①~日本代表最長キャリアを持つ男~【不屈のパラ戦士】

島川慎一(しまかわ・しんいち)
1975年1月29日、熊本県出身。バークレイズ証券株式会社/BLITZ所属。21歳の時に交通事故により頚髄を損傷し車いすの生活となる。1999年よりウィルチェアーラグビーをはじめ、2001年に日本代表に選出されて以降、アテネ大会から4大会連続でパラリンピック出場。リオ大会では初のメダルとなる3位に輝く。また、埼玉県所沢市を拠点とするチーム・BLITZを2005年に創設(現在の本拠地は東京)。過去、日本選手権大会で8度の優勝を誇る。