日本トレーニング史② 八田一朗の功績




日本人はいつごろからウエイトトレーニングを行うようになったのか。その歴史を紐解いていく本稿。今回は日本のレスリングの父といわれた八田一朗の功績について。

日本ボデイビル創成期を考えるに若木竹丸の存在は大きいが、早稲田大学出身者たちの力も絶大だ。特に早大レスリング部は創設時からバーベル運動による肉体づくりに力を注ぎ、それが後の日本ボデイビル協会設立へ発展していった。

早大レスリング部は、日本のレスリングの父といわれた八田一朗(後の日本ボデイビル協会会長)が創設した。八田は1931年、早大柔道部在籍時に米国遠征をしたが、その時、レスリングに触れた。帰国後、早大にレスリング部をつくろうとして奔走。1934年に部として大学から認可を受けた。

ちなみに八田は前々年の1932年、ロサンゼルスオリンピック参加を目指して「大日本アマチュアレスリング協会」を設立。体協入りは認められなかったが、日本レスリング選手団の一員となって出場した。この時の出場選手たちは柔道高段者だったが、全員敗北。八田はレスリングと柔道との違いを痛感し、レスリングに専念することを決心したのだ。

八田はご存知のように早大レスリング部を率いて多くの全日本級アスリートを輩出したが、その中の1人が平松俊男(後の日本ボデイビル協会理事長)だった。サンドウのバーベルトレーニングに影響を受けていた平松は、とにかく腕っぷしを強くしたいとレスリング部にバーベル運動を導入した。もちろん、何でもいいものは取り入れようという八田だけにバーベル運動を認めて、平松を中心にしたバーベル愛好グループがバーべル運動で筋肉を鍛えていった。

早大レスリング部は日ごろの鍛錬にものを言わせて戦前の全日本選手権を席巻していったが、バーベル運動で筋肉を鍛えてきた平松も1年生の1935年、第2回全日本レスリング選手権72㎏級で3位。36年の2年生の時には同級2位。4年で3位を獲得している。

戦後、メルボルンオリンピックにフリースタイル87㎏級超で出場した早大生・大平光洋(現在、国際武道大学理事)は、体格に優れた外国人に負けじとバーベル運動によって肉体を鍛えに鍛え、筋肉が皮膚を破らんばかりだったというから、早大レスリング部がいかにバーベルを使った筋肉トレーニングを重視していたかということだろう。

前後するが戦後10年、1955年に発足した日本ボデイビル協会の理事長が平松俊男で、後に会長になったのが八田一朗。ちなみに同協会を設立した人物は当時、早大柔道部員で早大バーベルクラブをつくった玉利齊氏(現在、日本ボデイビル・フィットネス連盟名誉会長)で、当時の早大出身者たちが八田一朗を軸にボデイビルの発足と発展にいかに寄与していったかがわかる。

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さて、平松がバーベル運動を導入してレスリングで活躍していた頃、後にボディコンテストで優勝をする窪田登はまだ岡山県倉敷市の国民学校低学年生徒だった。窪田少年はその頃、兄・誠一が自宅の納屋につくったトレーニングジムで、コンクリート製のバーベルを持ち上げて体を鍛えている光景を毎日見ながら過ごしていた。そんな窪田が兄の影響でウエイトトレーニングを本格的に開始するのは戦後半年経った1946年元旦のことである。

文・安田拡了