創始者は悲劇の軍人・堀内大佐
今回は堀内式「海軍体操」というものを紹介したい。
これは堀内豊秋海軍大佐が海軍軍人の体操として、デンマーク体操を海軍向きに改良したものでリズムと躍動感のあふれた体操だった。筆者の知人で海軍兵学校70期の森田禎介氏(終戦時、大尉)は「海軍体操といっても堀内さん独特のもので、リズム感といいダイナミックさといい、素晴らしい体操でした。もちろん、現代でも十分通用するほど優れた体操でしたよ」と述懐する。
戦前、日本陸軍には兵士の健康増進、運動能力向上のための「陸軍体操」があった。それはスウェーデン式体操(のちにラジオ体操に採用されて日本国民の体操として普及した)を取り入れたもので、陸軍戸山学校で指導をしていた。陸軍と仲が悪かった海軍でも体操の必要性ありと陸軍戸山学校に海軍士官を派遣し、陸軍体操を学ばせ、当初、これを海軍体操教範として採用した。
だが「一つ一つの動きがぎくしゃくしている」等の理由で海軍ではあまり評判がよくなかった。そんな時(昭和6年)、玉川学園の創立者・小原国芳がデンマーク体操を創始したニコル・ブックと体操演技者たちを日本に招聘し、主要40数カ所で実演講習会を開いた。
噂を聞いた海軍は体操研究の第一人者・堀内豊秋海軍大尉(当時)と海軍兵学校柔道教授で嘉納治五郎の愛弟子だった杵淵政光(戦後は東京水産大学、東海大学教授)を講習会に派遣した。堀内大尉はブックたちをこう評した。「胸は厚く、均整がとれ、姿勢は正しく、動きは上品で柔らかく強く巧妙で運動能力は絶大」であると。さらに、この体操については、「この体操で運動能力を養えば、どんな猛訓練でも容易にできるとともに、戦闘技術が躍進するに違いない」と感想を述べ、デンマーク体操の導入を海軍に訴えた。
しかし、堀内の熱い思いは無視され、昭和12年8月、「陸軍体操」をもとにした「海軍体育教範」が発布される。だが、堀内(当時、少佐)は落胆せず、デンマーク体操を基礎とした体操研究を進めるにあたり、自分の体を実験台にして推し進めていった。
そして、ついに昭和17年9月、デンマーク体操を導入した新しい「海軍体操」が正式に教範として公布されることになった。
堀内(当時、中佐)は喜んだ。ところが、その教範内容はデンマーク体操をそのまま取り入れたもので、堀内は「こうじゃないんだ! デンマーク体操をそっくり使うバカがあるか。海軍式に作り直すべきじゃないか」と進言する。
例えば、ひとたび軍艦、潜水艦に乗り込むと航海は長期になる。狭い艦内の部屋でも体操できなければ意味がなかったからだ。また、それとは別に(特に飛行機乗りを志願する者のためか)体を空中転回させるなど躍動感のある独特の体操も編み出して堀内式「海軍体操」の導入を願ったが、あまりに上司とやりあうために堀内式は採用されなかった。
だが、海軍は実にスマートで合理的なところがある。海軍体操の教範には『指導者は指導案に固執することなく、教範各種の運動を活用し、もって体育効果の向上を期するごとく務むるものとする』と書かれており、堀内はこの条文を思う存分活用し、兵学校教官兼監事時代に堀内式「海軍体操」を生徒たちに指導したのだった。リズミカルだし、堀内の人間味のある人柄もあって、生徒たちにも大いに歓迎されたという。
堀内のその後についても記しておく。彼は厦門(アモイ)方面を海軍陸戦隊司令として統治、インドネシア・ジャワ島など各地司令も歴任し、どこでも現地民から慕われた人格者であった。もちろん現地民たちにも健康増進のために体操を教えた。インドネシア統治時代、別の部隊の部下が敵捕虜を殺害。もちろん堀内は知らず、全く非はないのだが、戦後、堀内は部下の犯した責任を背負って戦犯として死刑台の露と消えた。当時、堀内を慕っていた多くの原住民たちが助命嘆願書を連合軍に出したが、復讐裁判であったために認められなかったという。生きていたら戦後日本体育界の重鎮になっていたことだろう。47歳の生涯。誠に惜しい人物だった。
次回は堀内式にこだわらず昭和17年公布の「海軍体操」の実際を紹介する。
文/安田拡了