走るGM【サッカー日本代表・岡野 雅行さん(ガイナーレ鳥取GM)インタビュー】




「見返す」で成り上がり「走を活かす」で日本代表へ

大学は日本大学文理学部の体育学科です。ただ、松江日大サッカー部でキャプテンをしていたことでの「体育推薦」。いわゆる一般入試と同じでした。だから最初はサッカー部には入れない。サッカーサークルとかでプレーしようと思っていました。

ところが、学内掲示板を見たら「サッカー部が入部テストをする」と書いてある。ダメ元でテストを受けに行って。ゲームをしたらたまたま4点くらいとって、約50人中2人に合格しました。

喜んでいたら先輩がきて言われました。「洗濯係かマネジャー、どっちにする?」。「洗濯係にします」。いわゆる雑用係。練習はさせてもらいますが、試合には全く絡めない。これが大学サッカーの最初です。

ただ、1年秋になると社会人でサッカーをされていた長島裕明さん(現:J2 FC岐阜ヘッドコーチ)が常駐で教えてくれるようになりました。そこで練習だけはずっと一生懸命にやっていたら「次の天皇杯予選、サブに入れるぞ」となりました。

自分の足の速さを知ったのもこのころです。授業で「100メートルのタイムを計ったら単位がもらえる」というのでバスケットシューズを履いて走ったら陸上部を抜いて10秒8。そこから高校の時のプレースタイルを変えていったんです。ちなみに武井壮さんがたまたまグラウンドを借りてその場にいたそうです。「すごかった」とラジオで言ってくれていました。

そこから試合の日まで先輩からは「なんであの洗濯係がベンチに入るんだ」という声が聞こえました。でも試合の日、4年生のFWが試合中にけがをして控えのFWが僕しかいない。「ふざけんなよ」と先輩に言われてピッチに入りました。完全アウェイです。でも、僕はそこで6点取って周りを黙らせて。レギュラーになり、関東選抜にも選ばれました。学校も一般生から特待生にしてくれて。そこで人生が拓けました。

「出番が来たら、何かしなくてはいけない。見返してやろう」と思って、先輩が来てもパスを出さずに行ったら点が取れてしまう。「やってみなけれれば解らない。自分で切り拓くしかない」。これも高校の時の教えです。

レギュラーになってからは自分の走りを活かすために研究しました。当時、足の速かった選手のプレーを繰り返し見て、練習で試してみる。ボールをわざと敵に見せてスピードを落としてから一気にスピードを上げる練習は何度もやりました。

僕はJリーグに入った後、「野人(やじん)」と言われて計算せずに走っているように見せていましたけど、あれは演出です。実際は計算してやらなくてはできません。僕の場合、相手DFが3人並んだら、緩急を付けたり、腕を鍛えて相手を利用して前に行くんです。

2つ先のプレーを想定して動く。そして一度ダメでも何度も繰り返す。仕掛ける。ミスを怖がらない。これがプロで大事なことだと思います。

カズさんと一緒に食事に行った当時も、こう言われたんです。「日本のサッカー界にニックネームで言われるのは3人くらい。俺はキング。中山(雅史・現:J3アスルクラロ沼津)はゴン、岡野は野人。だから俺はピッチ外も含めてキングでいないといけないし、ゴンちゃんはバラエティー感を出さないといけない。だから、お前はカッコつけず『野人』でいいんだよ」と。だから僕はエンターテイナーとして「野人」を演出していました。

日本大サッカー部3年の時は、アルバイトでJリーガーに対してバーテンダーをしていた僕が翌年、浦和レッズに入れたのも、日本代表に入れたのも、負けていたらサッカーをやめていたと思うジョホールバルで最後にフランスW杯出場を決めることができたのも、自分の得意なことに対して逃げずにやってきたから。トレーニングは歩いていてもできますし、駅のホームで人を交わすこともドリブルのトレーニングになります。場所や環境が少しでもあれば、上に行けるチャンスがある。僕はそう思います。