【スポーツとケガ】元”天才”サッカー選手 財前宣之に聞く①




これまで積み上げてきた経験を、自分の言葉で子供たちに伝えたい

財前宣之。

ひょっとしたら、その名前を知らない人も多いかもしれない。1999年から2005年までをベガルタ仙台で、2006年から2009年までをモンテディオ山形で、計11年間を東北でプレーした元サッカー選手だ。ファンからは“ザイ”という愛称で慕われていた。

決して平たんではないキャリアを送った彼はいま、仙台市で自らが開校した『財前フットボールスクール』で指導者としてのキャリアを歩んでいる。彼はどのような経緯で「自分でもやるとは思ってなかった」という指導者の道に飛び込むことになったのだろうか。


「これまで東北の方たちには本当にたくさん応援していただきました。そういう縁もあって、いままでは自分のためにサッカーをやっていましたけど、引退したときに東北の人のために何かやりたいなということを考え始めて。自分はサッカーをずっとやってきて、いろいろと経験してきた中で、成功したことや失敗したことを子供たちに伝えたいと思うようになりました」

東北でプレーをしたのちに、タイに渡り現役生活に終止符を打ったのが2011年、35歳のとき。真っ先に古巣、ベガルタ仙台から指導者としての誘いがきたという。

「『うちの子供に教えてほしい』と、一番に声をかけてくれたのがベガルタでした。現役を引退したときは、確かにサッカーという武器を一切捨てて、違う道に行くっていう選択肢もありました。だけど、周囲からは『もったいない』と言われましたし、だったら指導者としてサッカーに携わっていきたいなと思うようになりました」

こうして財前はベガルタ仙台の下部組織の指導者として、4年間、ジュニア選手の育成に励んだ。

「4年間、子供たちにサッカーを教えながら、いろいろなことを経験させてもらいました。ベガルタには感謝しています」

だが、それらの経験は同時に、新たな葛藤も生みだすことになる。

「学年ごとの特徴だとか、『意外とこういうことができるんだ』とか『こういう大人のトレーニングができるんだ』というのが分かってきて、それに合わせて指導方法なんかも変えたりしようとしたんですけど、ただ自分の場合はどうしても一企業の雇われコーチだったので、大きくは変えられませんでした」

「もっと自分の色を出して子供たちを指導したい」という気持ちが日に日に増していった財前は、ついに行動にでる。2016年4月、自らの手でフットボールスクールを開校したのだ。

「サッカーだけじゃなくて人との繋がりだったりもふくめて、これまで自分が感じてきたことを、今、伝えている段階ですね」

「一企業の雇われコーチ」としてではなく、「財前宣之」として指導者としての道を新たに歩み始めた。

「サッカーだったら、ボールを扱うだけじゃなくてスピードも大事ですし、体の柔らかさも大事。自分はケガが多かったので、ケガをしないことがいかに大事かもわかっています。確かに人それぞれ足が速い人もいれば、遅い人もいますけど、自分の中で少しでも早くなれるようなトレーニングや、その取り組み方も考えています。メンタルという面でもサッカーを選ぶからには、軽い気持ちというか、弱い子ではできないよっていうのも、この2年間で伝えてきたことです」

こうした指導方針は決して平たんではなかった彼のキャリアが背景にある。その現役生活を通じて何を経験し何を感じてきたのだろうか?

財前宣之(ざいぜん・のぶゆき)
1976年、北海道出身。元プロサッカー選手。U17ワールドカップではベストイレブンに選出されるなど、若くしてその才能を開花させる。現役時代はベガルタ仙台、モンテディオ山形などで活躍。その後タイに渡り、1年間活躍したのち、現役を退く。引退後はベガルタ仙台の育成部で子供たちを指導。2016年4月には、自らが主宰する『財前フットボールスクール』を開設する。
財前宣之フットボールスクールHP

取材・文/須崎竜太 写真/山中順子