日本トレーニング史⑫日本のボディビル・フィットネスの発展を願って




JBBFも国際大会に参加していくにつれて、スポーツ団体として官公庁から認識されるようになった。

そうなってくると、JBBFの運営形態も国に認可された公益法人化に発展させたくなる。こうしてJBBFは1992年に申請し、公益法人に認可されたことで、また新しい波が訪れる。指導者講習プログラムの改革に加え、石井直方氏が指導者委員会委員長に就任して、さらに高レベルの指導者育成に動き出したのだ(94年には公認指導員認定制度が発足)。

さらに国より各種補助金などが支給されやすくなり、第9回女子アジア選手権・第6回アジア・ミックスドペア選手権・第3回アジア・オープン選手権大会を中野サンプラザで開催。アジア8カ国より67名の役員・選手(日本役員を除く)が参加し、盛大な大会になった。

選手たちも勢いづいて国際大会で目覚ましい活躍をする。96年の女子アジア選手権(マカオ)では上野結花と大垣純子が見事優勝。男子アジア選手権(インド)では谷野義弘が優勝。同時に「モースト・インプルーブド賞」を獲得した。

翌97年、「ワールドゲームズ」(フィンランド開催)に出場した水間詠子、広田俊彦がともに優勝。また男子アジア選手権(韓国・ソウル)で朝生照雄が優勝。女子アジア選手権(東京)では浅見由里香、水間詠子、大垣純子、広田ゆみの4選手が優勝した。

2000年、96年のアジア選手権で優勝した谷野がミスター日本に輝いたが、2001年のワールドゲームズでも銀メダルに輝いた。この頃、この谷野を破ってミスター日本に輝いた田代誠を忘れてはならない。スキンヘッドの薩摩隼人は2001年から2004年まで日本選手権4連覇の偉業を成し遂げ、さらに2013年の世界ボディビル選手権でも3位になった。以下国際大会の優勝者を列記しておこう。

2009年、アジア選手権で近藤賢司。
2011年、同選手権で谷戸孝二と片川淳、そして女子では今村直子。
2012年、同選手権では女子が大健闘。山野内里子、今村直子、中村静香。
2014年、同選手権で溝口隆広。

そしてついに2016年の世界選手権80㎏級で金メダルに輝いたのがミスター日本7連覇していた鈴木雅だ。鈴木はアーノルド・クラッシック・アマチュア選手権でも優勝しており、ついに日本を代表する世界王者になった。これは日本のボディビル界発展のためにも喜ばしいことだ。

さて、ボディビル競技は2000年にオリンピック公開競技種目にもなったが、結局スポーツ競技ではないということとドーピング上のことで競技種目から外された。また近年のワールドゲームズにも外国選手にドーピング違反の選手がいたことでボディビル競技の参加は認められていない。しかし、その一方でスポーツ全般、また健康増進としての筋力トレーニング人口が増えてきており、それに対応する形でJBBF(社団法人日本ボデイビル連盟)は進化していく。

2013年、これまでのような本格的ボディビルとともに、単純にスポーツ筋力や健康的できれいな肉体づくりを目指す人たちのために、あらたな組織づくりとともに公益社団法人の認定を受けた「日本ボディビル・フィットネス連盟」と改称された。

玉利齊会長(代表理事)は「フィットネスという名前がつき、裾野をどうやって広げていくか。フィットネスの新しい競技をどう打ち出していくかがこれからの課題です」と語り、あらたなボディビル発展に精力を注ぐことになっていく。

しかし、2017年10月14日、玉利会長が突然亡くなった。日本のボディビルを産み、業界を育てることに生涯をささげてきた玉利の死は悲しいが、時代はトレーニングブームでまさに玉利が望んでいた時代になっているのはせめてもの救いだ。改めて玉利齊の死に哀悼の意を表するとともに、日本のボディビル・フィットネスの発展を願って、筆を置く。(了)

文・安田拡了