子どもの頃、農作業を手伝って
ナチュラルに体を鍛えられた
――今年40歳という年齢を迎えて、何か変化はありますか?
大野:20代の頃は、40歳といったらずいぶんおじさんというイメージがありましたけど、いざ自分がなってみたら、20代の頃と何ら変わらない感覚でやっているなという印象があります。もちろん、昔と比べてスピードは落ちましたが、フィットネスであったり、持久力であったりという部分に関しては、数値的にもまだ若手に大きく負けているということないです。40代といってもこんな感じなのかと思いますね。自分も長くラグビーをやらせてもらっているので、その積み重ねがあって今があるのかなと思います。
――大野選手の歩みをお聞きしたいのですが、身長が192㎝。子どもの頃から体は大きかったのですか?
大野:身長は小さいときからクラスの中では大きいほうではありましたね。
――ご両親やご兄弟も大きいほうですか。
大野:それが違うんです。両親も小さいですし、4人兄弟なんですが、大きいのは自分だけです。
――それは意外ですね。
大野:祖父が大正生まれにしては大きいほうなので、隔世遺伝があるのかもしれないですね。
――子どもの頃はどんな感じの子でしたか?
大野:おとなしいほうだったと思います。小中高とずっと野球をやっていて、ポジションは主に外野で、あとはキャッチャーをやることもありました。実家が農家なので、そこ採れた野菜なり米なり牛乳なりを食べて飲んで育って、両親の農作業を手伝ってナチュラルに体を鍛えられていたというのもあると思います。
――農作業のお手伝いをしていたのですね。
大野:羊の世話をしたり、重い牛乳を運んだりしてナチュラルに鍛えられた部分もあると思います。オールブラックスの選手もファーマー出身者が多いと言いますし、自分も知らず知らずのうちに、そうやって体の強さが身についていたのかもしれませんね。
――日大工学部に入ってからラグビーを始めていますが、日本代表になるような選手のキャリアとしてはだいぶ遅いスタートですよね。なぜラグビーをやろうと思ったのですか?
大野:普通に部活の勧誘で(笑)。
――自分からではなくて勧誘で!?
大野:日大なんですが工学部なので、部員が17人くらいしかいなかったんです。だからケガ人が出たら試合もできないくらいだったので、部員確保が死活問題なんです。自分も2年生になってからは新人勧誘に走り回っていたのですが、とにかく大きい新入生がいたら声をかけていた感じですね。
――野球とラグビーでは全然違う競技なので、始めた頃は大変だったのではないですか?
大野:競技としては全然違いますけど、そこまでの部ではなかったんですよね。最初にラグビー部に入ろうと思った理由も、先輩たちの雰囲気が良かったからなんです。ラグビーがやりたいというよりも、その先輩たちの仲間に入りたいというのが最初の動機でした。
――すごくいい部だったのですね。
大野:はい。実際、ラグビーをやってみると、人にボールを持ってぶつかっていいとか、タックルをしていいとか、非日常的なところがすごく面白いなと思って、すぐにラグビーが好きになりました。チームの全員がスポーツ推薦で入ってきたわけではなく、勉強のほうが優先なので、実習や授業が長引いたら部活に参加するのは当然遅れます。実習で遅れてきた先輩が、グラウンドの脇で着替えてスパイクをはいて、すぐにバチバチタックルしているのを見て、なんかこの人たちカッコイイなって思ったんですよね。
――皆さん、部活と勉強を両立していたのですね。
大野:そうですね。まず単位を取らないことには卒業できませんからね。
――野球とラグビーでは求められる筋力も違うので、フィジカルトレーニングの内容も変わると思います。どのような変化がありましたか?
大野:野球をやっていた頃はどちらかと言うと細かったと思います。ラグビーを始めてからはケガ防止のために一生懸命ウエイトトレーニングをしました。あとはラグビーの練習で体をぶつけ合うので、それによって筋細胞が壊れて、それが回復してという感じに自然と体も強く、大きくなっていったという部分もあります。
――ウエイトトレーニングの効果だけでなく、普段の練習で体が強くなっていったのですね。
大野:それはあると思いますね。
――とはいえ、東北2部の大学から日本代表まで上り詰めるとは、当時は想像できないですよね?
大野:まったくできません。本当にラグビーが楽しくてやっていて、東北リーグでなんとか1部に上がろうとみんなで頑張っていたので。
――国体の福島県選抜に選ばれて、そこで元日本代表でのちに東芝の監督となる薫田真広さんと出会った?
大野:そうです。福島県選抜のコーチが薫田さんと大学時代の同期で、自分のプレーを見たそのコーチが「体が大きくてまあまあ動ける面白い選手がいる」ということで薫田さんに紹介してくれました。それがきっかけでトライアウトではないですけど、大学4年の春に東芝の練習に参加させてもらって、ヘタクソでしたけど根性だけは認めてもらって卒業後に東芝に入ることになったんです。
――東北2部で楽しくラグビーをやっていたところから、いきなり日本のトップ選手が集う東芝へとなると、相当大変だったのではないですか?
大野:入ったときは、通用する部分があるのかという不安しかありませんでした。でも、全国のラグビーをやっている人たちが東芝に入りたいと思っているなかで、自分は縁があって誘ってもらったので、なんとかして食らいついていくしかないと思っていました。まずフィジカルの部分で、ぶつかり合いではまったく通じなかったですね。
――馬力というか圧が全然違うわけですか。
大野:どちらかというとテクニックの部分ですね。当たるときの姿勢や、当たり方のテクニックが全然違いましたね。薫田さんが監督だった頃は、本当に親に見せられないぐらいの練習をずっとやっていました。狭いエリアでディフェンスもびっちりといる中で、何とかそここじ開けてボールを少しでも前に持っていくっていう。そういう練習をやっていて、本当にきつかったです。
――逆に通用した部分は?
大野:持久力ですかね。持久走的なのは速かったというか、自信はありました。その部分は東芝に入っても通用したなというのはありますね。まずはその部分だけ勝負、そのワークレートというか仕事量ですね。倒されてもまたすぐに起き上がって次に走るっていう。その部分は認められていたと思いますね。
――常にボールに絡んでいけるという。
大野:そうですね。今もそうですけど、そこが自分の強みだと思います。
★次回はラグビーに必要な筋力や回復についてのお話をお届け!
取材/佐久間一彦 撮影/中田有香
1978年5月6日、福島県出身。東芝ブレイブルーパス所属。清陵情報高校時代は野球部。日大工学部進学後にラグビーを始める。2001年に東芝ブレイブルーパス入り。07年フランス、11年ニュージーランド、15年イングランドと3度ワールドカップに出場を果たした。代表キャップ98は歴代1位。ポジションはロック。192㎝、105㎏。