大阪近鉄バファローズやオリックス・バファローズで長きにわたって活躍した水口栄二さんが野球塾を開き、子供たちに指導をしている。その指導には独特の用具を使った独特な練習法もあるという。水口さんのもとを訪ね、その話を聞いた。まずは水口さんと野球人生の歩みについて。
春というにはまだ早い2月半ば、訪ねて行ったのは兵庫県西宮市。電車の終点駅からバスに乗ると、いかにも山の手といった瀟洒な住宅街が現れてきた。バスはその住宅街の坂をさらに登っていき、山道を抜けるとそこには田園風景が広がっていた。駅から30分ほどだが、ずいぶん遠くに来てしまったように感じる。
バスを降りて、切り株の並ぶ田んぼに挟まれた道を下ると、「野球心(やきゅうしん)」と書かれた看板が目に入った。その文字の横には、なつかしのフォームでバットを構えた男の姿が描かれていた。
水口栄二さんといえば、今はなき大阪近鉄バファローズの2番セカンドとして、いぶし銀の活躍をした名選手である。高校野球の名門、松山商業から早稲田大、そしてドラフト2位でプロの世界に入った。まさに球界のエリートだ。2000年の近鉄バファローズ最後の優勝時の主力選手で、2005年のオリックスとの合併後はチームのまとめ役として尽力した。プロ通算1213安打。さぞかし少年時代も、「スーパー小学生・中学生」だったのかと思いきや、「いえいえ、まったく普通の子供でした」という意外な答えが返ってきた。
「高校は松山でしたが、生まれも育ちももっと南の八幡浜という田舎でね。とにかく外で遊んでいるのが好きな子で、テレビも見ないもんだからプロ野球のことにも興味がなかったんです。そもそも本格的に野球をするにはちょっと遠くまで通わなければならなかったんで、小学校の時はサッカーしてたんですよ」
のちにプロ野球選手になるほどの運動神経を周囲は見逃すはずもなく、中学校に進んだ時にはサッカー部から誘いがあったのだが、結局は野球部に入部する。それまで空地でのソフトボールくらいしかしていなかった水口少年だったが、父親の「野球やったらどうだ」の一言で、その運命は大きく変わることになった。
都会の学校と違い、中学入学までに本格的に野球に取り組んでいた生徒はほとんどいない「普通の野球部」だったが、水口さんの在籍時には、強豪として近隣で名を馳せた。小柄ながら2年でサードのレギュラーポジションについた水口さんは、県内でも注目される存在になり、1学年上の先輩の誘いもあり、松山商業の門を叩く。高校時代には1年と3年の時に甲子園出場を果たすが、なにがなんでも甲子園を目指して野球をやっていたわけではないと水口さんは言う。
「3年の時、自分の代で出たときは、実際フィールドに立って『これが甲子園か』って感動しましたけど、それが目標ということはなかったですね。目標はみんなが上手くなること。そうすれば結果として甲子園に行けるとは思っていました。でも、あらかじめ先輩から言われていたんですけど、練習はきつかったですね。甲子園っていうより、日々の練習にしがみつくのに必死だったって感じです(笑)」
そんな水口さんに来たのが、早稲田大学進学の話だった。ちょうどこの頃、この大学はスポーツ推薦で優秀な選手を集め運動部の強化に乗り出していたのだが、水口さんは、新設された人間科学部(現スポーツ科学部)の第1期生として入学する。1年からショートのレギュラーとして活躍したが、当初はプロ入りなど夢のまた夢。「野球しかしてこなかったし、どこか実業団のある企業に就職できれば」と思っていた水口さんの背中を押したのは、臨時コーチに来ていた指導者だった。リトルリーグチームを率いて世界一にもなった経験をもつその指導者の「プロに行ってみろ」の一言で、プロ入りを決心した水口さんのもとに、最後のシーズンの後、ドラフト2位の指名が舞い込んだ。
ところが飛び込んでみたプロの世界は、大学とはまったくレベルが違っていた。当時の近鉄と言えば、「いてまえ打線」全盛時。水口さんが大学2年の時には、あの「10.19」(シーズン最後のダブルヘッダーに連勝すれば、当時黄金時代を現出していた西武の3連覇を阻止できたが、第2試合を引き分け、涙をのんだ)の死闘を演じ、その翌年には、ライバル西武が1勝すれば優勝という土俵際で迎えた、天王山のダブルヘッダーでの主砲ブライアントの4連発で西武の4連覇を阻止した。そういう豪快な打線をキャンプで目の当たりにして、水口さんは、プロでは3年くらいしかもたないだろうなと思ったという。
「びっくりしました。バッティングが違いました。飛距離も、打球の速さも。今まで何やってきたのかなと思いました」
しかし、プロ4年目から頭角を現した水口さんは、ショートのレギュラーポジションを奪取、肩を痛めた後はセカンドにコンバートされ、17年の長きにわたって現役生活を続けた。
その現役時代で優勝と並んで大きな出来事が、水口さん自身、「戻るところがなくなって寂しいですね」と言う、球団合併だ。経営難の近鉄球団がオリックス球団に吸収されるかたちでオリックス・バファローズが誕生したのだが、この時、水口さんは、故仰木彬監督から、当時オリックスのリーダーだった谷佳知選手とともにチームのまとめ役を命じられた。
「なのに、キャンプでいきなり怒られたんですよ。集合かかっているのに、谷と一緒にチンタラ歩いて行ってね(笑)。僕自身はチームをまとめるというより、仰木さんを男にしたいって行く思いの方が強かったですね」
その思いとうらはらに、ベテランの域に差し掛かっていた水口さんの出番は次第に減っていった。仰木監督は統合球団をなんとかかたちにした後、2005年シーズン限りで退任、翌年には帰らぬ人となった。そして、水口さん自身も2007年限りで引退、その翌年は打撃コーチを務めたが、これも1年限りでプロ野球の世界に別れを告げることになる。
「現役引退も、退団も、球団に呼ばれて、『もう契約はないから』と言われるだけでした。それがプロという世界ですから仕方ないですね」
つづく(次回は「野球心」独自の練習法について)
取材&文&撮影/阿佐智
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