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パラリンピックが楽しくなるコラム~「パラ」って何?【佐久間編集長コラム「週刊VITUP!」第103回】

VITUP!読者の皆様、こんにちは。日曜日のひととき、いかがお過ごしでしょうか? 東京オリンピック・パラリンピックが近づき、これまでに取材させてもらってきたアスリートの活躍が耳に入る機会が増えています。

少し時間が経ってしまいましたが、テニスの全豪オープン車いすの部で、国枝慎吾選手と上地結衣選手が見事に優勝を飾りました。また、2月2日に行なわれた別府大分毎日マラソンでは、ブラインドマラソンの道下美里選手が自らの持つ世界記録を更新する2時間54分22秒のタイムで優勝。東京2020パラリンピックに向けて、より期待が大きくなりました。というわけで、今回はパラリンピックがより楽しくなるコラムをお届けしましょう。

「パラリンピック」という名称は、前回の東京オリンピック、つまり1964年の東京オリンピック後に開催された第2回パラリンピックから使用されたと言われています。第1回大会は1960年のローマで開催されているのですが、その源となっているのは1948年に行なわれた小さなアーチェリー大会でした。同年7月29日にロンドンオリンピックの開会式が行なわれた一方で、同日同じイギリス内のストーク・マンデビル病院で男子14人、女子2人が参加したアーチェリー大会が開かれました。入院中の車いす患者によるもので、これがパラリンピックの礎とされています。

このアーチェリー大会を機に、毎年7月に障害者によるスポーツ大会が開催されるようになり、イギリス以外の国からも選手が参加するようになっていきます。そして1960年にイギリス、オランダ、イタリア、フランス、ベルギーの5カ国が参加して、「国際ストーク・マンデビル委員会」を設立。同年、ローマオリンピック終了後に、同じローマで「第1回ストーク・マンデビル大会」が開催され、23カ国、400名の選手が出場。のちにこの大会が第1回パラリンピックと位置付けられるようになったのです(第2回の東京大会からパラリンピックと呼ばれるようになったと言われます)。

ちなみにパラリンピックの名称は、もともとは英語で脊髄損傷による下半身まひを意味する「Paraplegia(パラプレジア)」と「オリンピック」を掛け合わせ造語。その後、車いす選手以外の視覚障害者など、他の障害を持つ選手の参加も認められるようになり、「もう一つの」という意味を持つ「Parallel(パラレル)」と「オリンピック」を組み合わせた言葉という解釈になっています。

ここまでが基本的なパラリンピックの知識です。ここからは居酒屋で「へー」と感心されるネタを紹介しましょう。パラリンピックは障害者のスポーツの祭典ですが、実はいくつかの競技で健常者も出場可能なんです。

たとえば、冒頭に記したブラインドマラソンは、視覚障害の選手をサポートする伴走者(ガイドランナー)が不可欠です。ガイドロープを握り合いながら一緒に走り、伴走者は段差など周りの状況やタイムなどを伝えてサポートします。マラソンでは伴走者は2人まで認められています(途中で交代します)。

(C)Ayumi-stock.adobe.com

ボッチャは選手の障害の度合いによってクラス分けがされています。BC3クラス(脳原性疾患、非脳原性疾患)という自分でボールを投げることができない選手のクラスでは、ランプと呼ばれる勾配具を使用して投球を行ないます。このとき、選手の指示に従いながらボールをセットするアシスタントは、健常者であっても構いません。アシスタントは1選手につき1名で、アスリートとして扱われるため、健常者であってもパラリンピックに出場することができるのです。

ブラインドサッカーとも呼ばれる5人制サッカーでは、ゴールキーパー(GK)は晴眼者、または弱視者が務めます。GKは視覚に障害のあるフィールドプレーヤーを声でアシストする重要な役割もあるため、晴眼者(弱視者)の出場が可能なのです。極端なことをいえば、サッカー日本代表のGKが出場しても、ルール上は問題ありません(登録上の問題はあるかもしれませんが)。

このように、パラリンピックは「もう一つのオリンピック」であり、障害者のアスリートだけでなく、それをサポートする人たちも含めてみんなでつくり上げていくスポーツイベントなのです。「へー」と思った方は、さっそく居酒屋で話してみてください。

 

 

 

佐久間一彦(さくま・かずひこ)
1975年8月27日、神奈川県出身。学生時代はレスリング選手として活躍し、全日本大学選手権準優勝などの実績を残す。青山学院大学卒業後、ベースボール・マガジン社に入社。2007年~2010年まで「週刊プロレス」の編集長を務める。2010年にライトハウスに入社。スポーツジャーナリストとして数多くのプロスポーツ選手、オリンピアンの取材を手がける。