常識にとらわれないふたりの思考法とは?【髙田一也のマッスルラウンジ 第63回】CIMA選手④




コロナ禍で休止中だった「髙田一也のマッスルラウンジ」が大復活! 再開一発目は今年、デビュー25周年を迎えたカリスマプロレスラー・CIMA選手が登場! かつて、同じジムでトレーニングをしていた旧知の仲のふたり。今回は主に「オリジナリティ」をテーマに対談してもらいました。

「たとえ同じ技でも、『CIMAがやったらちょっと違う』となれば(CIMA)

「一般に受け入れられることって、昔のボディビルにはなかった」(髙田)

 

髙田:CIMAさんは現役を引退してもトレーニングは続けますか?

CIMA:やっぱりやってしまうと思いますね。まったくやらないことはたぶんないかなと思います。生活の一部になっているというか。

髙田:やめる人ってすごいですよね。たまにいるじゃないですか。なんでやめられるのかなと不思議なんですけど。もったいないですし、どういうふうに考えてやめる決断に至ったのかなというのはむしろ聞いてみたいですね。

CIMA:そうですね。僕もやめるというのは頭の中にないかもわからないですね。強度とかはもちろん変わると思いますし、健康維持に振った形になるとは思いますけど。

――年齢を重ねても可能性はまだまだあるという前回の髙田さんのお話を聞いて、CIMA選手はどう感じましたか。

CIMA:プロレスの場合、物理的にできなくなってしまう動きはどうしてもあるんですよね。これも信じられないような話なんですけど、受け身のことをバンプと言うんですけど、若い時は僕、ヘッドバンプができると思い込んでいたんです。俺は頭で受け身を取れると。そうしたらある時、一発の技で首を壊してしまって、全身がしびれてしまったんです。そこからヘッドバンプというのは存在しないんだなと。だから抗えるものと抗えないものがあるんだなと思います。でも、若い頃のように動き回れなくても、ステップの踏み方とか走り方で速く見せることはできるんです。でもそれは若い子に言ってもわからないですし、できないです。今、ガンガン動き回っている子が10年後とかに気づいてくることだと思いますので、それを僕は6年7年で気づかせてあげることができれば、その選手はもっと選手寿命も延びていくんじゃないかと思います。トレーニングでもフォームで効かせ方を変えるとか、そういうことはあるんですか?

 

髙田:それはすごいありますよ。前とは全然やり方が違ったりしますし。「こういう伸び方がまだあるんだ」とか、そういうのを探しながらやっているところはありますね。職業柄、20kgとかのプレートの付け替えをとんでもない本数やっていた時期が長かったので、手根管症候群という手がしびれて動かない状態になってしまったことがあったんです。その時、僕は46kgのプレスをやっていたんですけど、お医者さんに言ったら、「それは髙田さんの根性でやっているだけ」と言われて。そこで握力を測ったら1kgしかなくて、「どうやってやっているんですか」と聞かれたので「こうやって持って、ここで乗っけてやっています」みたいな話をして。それがもし自分のクライアント様だったら絶対「休んでください」とか「違うやり方をしましょう」と言うんですけど、自分だとやり方を探してしまうところがあるんです。そうすると意外とできたり伸びたりするんですよね。

この間も自分でびっくりしたのが、肩がすごい苦手だったんですよ。でも最近、肩のトレーニングを一生懸命していたら、少し補助もしてもらったんですけど、40kgのダンベルショルダープレスが30回できたんです。そこで力の入れ方を覚えて、また次にちょっと重いのをやってみようかなとか。トレーニングは嫌いなんですけど、でもそこでテンション上げるというか、少し楽しさを見出すみたいな感じですね。プロレスだったりアスリートの方って、故障とかケガもつきものじゃないですか。でも、自分たちにはそれがないと思うんですよ。今の時代って、かなり科学的にトレーニングも解明されていたりとか、栄養もすごくよかったりしますし、アンチエイジングの医療とか、たまにそういう学会とかに出て勉強したりするんですけど、細胞とかそういうところから考えていくと、ずっと自分の可能性を伸ばせるんじゃないかなと思っていて、この数年はその勉強をしているんです。

――CIMA選手はプロレスラーとしてオリジナルへのこだわりがあると思いますが、その点は髙田さんも同様だと思います。オリジナリティというテーマでお話を聞かせてください。

髙田: CIMAさんももしかしたらそうかなと思うんですけど、やってきたことが後づけでオリジナリティになっているところがないですか。

CIMA:ああ。たしかに。

髙田:自分は自然にやっていたことも、まわりから見るとちょっと違うというか。意識して自分の何かを編み出そうというのはあんまり考えたことがなくて、結果的にという感じですね。「こんなこと、みんなやらないだろうな」と思うことはあるんですけどね。

CIMA:僕はプロレスの技で言うと、他の団体の他の選手でも同じ技が見られるんだったら、そっちの団体のほうが大きければそっちに行ってしまうと思いますので、そこで見られないものを見せることが必要かなと思う部分はありますね。たとえ同じ技でも、「CIMAがやったらちょっと違う」となればいいなと思っています。

髙田:その考え方は誰かから教わったとかではなく、最初から持っていたものなんですか。

CIMA:メキシコで教わったことも多いですし、本当にマンガみたいな話ですけど、寝ている時に降ってきた技もあります。メテオラという今の僕の必殺技は、初公開する何年も前に技はできていたんです。でもインパクトのある技名が思いつかなかった。それでずっと出していなかった時に、ギリシャのメテオラ修道院というところに行って「これだ」と。ハマる技名ができて、ようやく出したというのがありますね。そこに関しては、他のレスラーと考え方が違うかもわからないですね。

髙田:そういう考え方でいうと、自分もウエイトトレーニングをどうしたらメジャーにできるかみたいなことは、すごく考えたんですよね。たいしたことではないんですけど、一般の人が見てくれるように、体を鍛えても着られるファッションを始めたりとか。あとは自分みたいな、もともと体が弱くて絶対的にトレーニングに向いていない人間が、どういうふうに今のようになっていったかを書いたりして、結構それは評価していただいたんです。

他には、ボディビルだとハードルが高い方もいらっしゃるだろうなと思っていたので、ボディビルではない、もうちょっと参加しやすい大会があれば爆発的に日本でもウエイトトレーニングが広がるんじゃないかなと思って、ベストボディ・ジャパンコンテストをつくったんです。当時、JBBF以外でいくつか新しい大会ができたりしたんですけど、出場選手が3人なんてこともあったんです。どうやったらもっとみんなが参加できるものがつくれるかなと思った時に、ああいう大会はどうだろうかと。ボディビルの先輩方から見ると、自分は邪道みたいな感じで見られているのかなと思っていたんですけど、みなさんすごく応援してくださって、大会にも出ていただいたりとか。それがその先のフィジークにつながったような形になったので、その点は自分としてはがんばったかなと思います。

CIMA:大会の間口を広げたことによって、トレーニングをしている人のモチベーションにもつながっていったんでしょうね。大会に出ている人はやっぱりカッコいいですもんね。そういうのを目指す方がどんどん増えてきて、またその方たちもカッコよくなってという。

髙田:一般に受け入れられることって、昔のボディビルにはなかったですもんね。

CIMA:トレーニングに打ち込んでいる人からしたら、「なんでこんなすごいんやろな」って感じなんですけど、一般の人たちからしたら現実離れしているのかもしれないですね。

髙田:僕たちの時代って、テレビとかですごいボディビルダーが扱われる時、だいたいキワモノ扱いでしたもんね。

CIMA:たしかにそうですね。「こんなすごいことをやっているのに」ってこっちは思うんですけど。

髙田:そういうもどかしさがあって、みなさんの努力とか、技術とか、気持ちというのがどれほどのものか、もうちょっと一般層に広がればいいなと考えていたところがあったんですよね。プロレスラーの方もひと昔前は規格外に大きな人たちばかりだったのが、CIMAさんたちのようにカッコいい体の方が増えましたよね。

CIMA:たしかにそうですね。そのへんはものすごく意識したかもわからないです。

髙田:まさに「かっこいいカラダ」という雑誌で表紙もされて。

撮影/佐藤まりえ 取材・構成/編集部

髙田一也(たかだ・かずや)
1970年、東京都出身。新宿御苑のパーソナルトレーニングジム「TREGIS(トレジス)」代表。華奢な体を改善するため、1995年よりウエイトトレーニングを開始。2003年からはパーソナルトレーナーとしての活動をスタートさせ、同時にボディビル大会にも出場。3度の優勝を果たす。09年以降はパーソナルトレーナーとしての活動に専念し、11年に「TREGIS」を設立。自らのカラダを磨き上げてきた経験とノウハウを活かし、これまでに多数のタレントやモデル、ダンサー、医師、薬剤師、格闘家、エアロインストラクター、会社経営者など1000名超を指導。その確かな指導法は雑誌やテレビなどのメディアにも取り上げられる。
TREGIS 公式HP

CIMA(しーま)
本名・大島伸彦。1977年、大阪府出身。1997年に闘龍門1期生としてメキシコでデビュー。2000年に開催された第3回「スーパーJカップ」では、決勝で獣神サンダー・ライガーに敗れて準優勝となったが、一躍日本のジュニア界にその名を知らしめた。2004年、闘龍門から闘龍門ジャパンが独立しDRAGON GATEとなると、同団体でもエースとなり数多くの王座を獲得。2018年には海外を中心としたOWEで活動することを発表。ユニット#STRONGHEARTSで国内でも数多くの団体に精力的に参戦。2021年には全日本プロレスで世界ジュニアヘビー級王座を獲得。他の選手と同じ技を使いたくないというこだわりを持ち、数多くの高度なオリジナル技を開発。多彩なテクニックと、巧みなマイクアピールで現在もトップ戦線を走り続けている。2021年3月12日新宿FACEでのリング上で、自身と#STRONGHEARTSのGLEATの入団を発表。リデットエンターテインメント株式会社の執行役員、及びGLEATのChief Strategy Officerに就任。
GLEAT公式HP