「裏方」から「世界一」へ―― 空手団体の職員が目指す最強最大の下剋上




世界最大規模のフルコンタクト空手団体・新極真会の事務局員として従事する志村朱々璃(すずり)は、現役の空手選手でもある。5歳から空手を始め、時に挫折を経験しながらも第13回世界大会の型部門で初めて日本代表入りをはたした27歳の青年は、選手として日の目を浴びるまでにどんな歩みを続けてきたのか。

――志村選手は現在、新極真会の総本部事務局員として勤務される傍ら、道場でのご指導もされているそうですね。

「平日は毎日、総本部事務局で働いています。指導は月、火、水、金で、東京の飯田橋にある総本部道場と、埼玉にある総本部埼大道場、浦和髙野道場で指導をしています」

――空手を仕事にすることについては、どのようにとらえていますか。

「空手を続けていきたいという気持ちはあったんですけど、事務局に入るまで仕事にしようとは思っていませんでした。僕は東京の総本部道場所属なんですけど、高校3年生の時に事務局員でもある髙野優希先生がご指導をされている埼玉の浦和道場にも出稽古に行っていて、『卒業後は事務局で働くのはどうかな?』とお話をいただいたんです。僕は当時、工業高校のデザイン科で勉強していて、新聞社に内定が決まっていたんです。写真をフォトショップで加工したりとか、そういう部署ですね。迷いはあったんですけど、それまで何でも空手中心に考えてきたので、がんばってみようかなと思って新聞社にお断りを入れました」

――高校卒業後の2014年4月、総本部事務局に入局されました。

「今は国内一課という物販などを扱う部署にいて、メーカーさんとのやり取りなどを行なっています。それ以外にも、大会や合宿などイベントの準備も僕がメインでやっています」

――日中は事務局勤務、夕方から道場でのご指導という多忙な毎日ですが、ご自身の稽古はどの時間にされているんですか。

「少年部の後が一般部の稽古で、通常であればそこに自分も混ざって組手をやったりサンドバッグを叩いたりするんですけど、今は世界大会が控えているので型をメインでやっています。鏡を見ながら、型の一部分を繰り返しやったりとか。それプラス、型のためのフィジカルトレーニングもしています。ベンチプレスでも、型に活かすことを考えて一発を強く動かす動作を意識しています」

指導後の自主練では、鏡を見ながら型の動作を繰り返し行なう

ベンチ台に寝そべり、15kgのプレートを一気に上げる。効かせることではなく、型の一瞬のキレを出すことが目的のため、低重量でスピードを重視している

かえる跳びジャンプも、着地の際に重心を落としたままピタッと静止することを意識する

――先ほど、高校はデザイン科で学ばれていたとおっしゃっていましたが、もともとクリエイティブな仕事を志望されていたんですか。

「両親が芸大出身で芸術関係の仕事をしているので、その影響が大きいと思います。僕も最初はそちらの道を目指していたんです。東京芸大に行くための予備校みたいなものがあって、僕の両親はそこの出身でデッサン講習の講師をやっていたので、僕も中学生の時に参加させてもらうことになったんです。そこで、小さい頃から本気で絵を描いてきた子たちに初めて遭遇したんですね。レベルが違い過ぎて、学校の中でちょっと絵が描けるくらいで天狗になっていた自分の鼻をへし折られました。それこそ3歳から空手を一生懸命続けてきた子の中に、中学校でちょっとケンカが強い子が挑んでもとてもかなわないですよね。あ、僕はこの世界で生きていくのは無理だと感じた時に、残っているものはやっぱり今までやってきた空手なのかなと思いました。それでも高校はデザイン科に進んだんですけどね」

――芸術と空手の共通点はありますか。

「高校生までに学んだことが、型の表現力とか試合の中の技の感覚に活きているなというのはすごく感じます。イメージをどれだけ体現できるか、という部分で空手にも芸術性があると思いますし、指導する時は相手にわかりやすく伝えることを意識しています。指導の話で言えば、言葉で論理的に説明したほうが入る人もいれば、擬音を使ったりあえて簡単に言ったほうが入る人もいるので、人によって言い回しなどは変えています」

――志村選手が空手を始めたのは何歳の時ですか。

「5歳になってすぐの時ですね。新極真会の総本部道場が自宅から近かったこともあって、幼稚園の年長だった4月か5月に始めました」

――そもそも、ご両親はなぜ空手を習わせたのでしょうか。

「選択肢を与えられたんです。水泳か空手かピアノか。5歳の僕からしたら水泳もピアノもイメージがつくんですけど、空手って何だろうと。それでたぶん何となく空手と答えて、見学に行ったのが始まりだと思います。あとは、父が大学生の頃に剣道をやっていて二段を持っているので、武道をやらせたかったというのも理由だと思います」

初の試合は幼稚園生だった6歳の頃。初戦敗退を喫したが、翌年に初勝利を挙げた

――その当時、空手は好きでしたか。

「時期によって好き嫌いの波がありました。幼稚園から小学3年生くらいまでは、普通に好きという感じだったと思います。試合には入門当初から出ていたんですけど、基本は一回戦負けでした。4年生になると少しだけ勝てるようになってきて、それがうれしくて一生懸命やっていました。6年生の全中部大会で3位に入賞して初めてトロフィーをもらって、その少し後の月島練習試合の小6男子軽量級で初優勝しました。その時は本当にうれしかったです。ただ、中学校の3年間は部活もやりたいし友だちとも遊びたいし勉強も大変だしという感じで、ずっと空手をやめたいと思っていました。シンプルに思春期だったんでしょうね」

――それでも空手をやめることはなかったんですね。

「モチベーションは下がっていましたけど、稽古は続けていました。たぶん、ここでやめたら全部が水の泡になるという意識が何となくあったんだと思います。ご指導をいただいていた伊師徳淳師範が亡くなられる前は基本稽古とか型を重点的にやっていたんですけど、新体制で髙野先生が指導に入るようになって、中学の後半から高校生くらいにかけてより組手をやるようになりました。最初はしんどかったんですけど、少しずつ試合で結果が出るようになってまた楽しくなっていきました」

――ご両親からは、空手に関して何か言われることはありましたか。

「その逆で、何も言わないんです。試合は見に来てくれるんですけど、空手に関しては必要以上に入ってこないというか。家でミットを持ってくれることもなかったので、早めに道場に行ってひとりでサンドバッグを蹴ったり走ったりしていました」

――カラテドリームフェスティバルやその前身の全日本ジュニア大会などの全国大会では、どのような成績だったのでしょうか。

「組手ではほとんど勝った記憶がないですね。小学4年生から全日本ジュニアに出始めて、たしか中3まで全部一回戦負けでした。高校2年生の時のドリームフェスティバルで初めて勝つことができて、準決勝までいきました。型はドリームでベスト8くらいまではいっていたんですけど、高校生になって組手をガンガンやり出して、型はもういいかなと。でも、大人になった時に久しぶりに型をしっかりやってみたら、しばらくちゃんとやっていなかったのにうまくなっていることに気づいたんです。おそらく、組手をたくさんやるうちに力強さとか安定感が出てきたんだと思います。それで試しに試合に出てみたら優勝することができたんですけど、当時は型の世界大会がなかったですし、組手と並行してやるのはきついなという気持ちがあったので、型の試合からは離れていました。それが去年、世界大会に型部門が導入されることが決まったのでまた型もがんばってみようと思って、日本代表選抜戦のドリームで7年ぶりに型の試合に復帰しました」

(後編に続く)

【大会情報】
第13回全世界空手道選手権大会
主催:全世界空手道連盟新極真会
日時:2023年10月14-15日(型部門は14日10時からスタート)
会場:東京体育館
新極真会HP

取材・文/伊藤翼 写真/長谷川拓司、福地和男、伊藤翼 写真提供/志村朱々璃