ZERO1のプロレスラー、田中将斗が7月11日、東京・新宿FACEにてデビュー30周年記念大会を開催する。
小学生の頃からプロレスラーにあこがれ、高校卒業後一度は就職するも、地元・和歌山で見た大仁田厚の闘いに衝撃を受けFMWに入門、プロレスラーになった。
【フォト】“弾丸戦士”田中将斗、衰え知らずな肉体をつくるトレーニング
93年7月23日のデビュー以来、インディーからメジャーまでさまざまなリングで活躍。新日本プロレスやNOAHをはじめ主要マットで数々のタイトルを獲得し、4度にわたりプロレス大賞(新人賞、敢闘賞、最優秀タッグチーム賞2度)も受賞した。田中と言えば、過激なハードコアマッチでも壊れない頑丈な肉体がトレードマーク。30年以上キープされているコンディションのよさは、日々のトレーニングの賜物だろう。そんな田中に、体づくりやコンディショニングについて話を聞いた。
「中学生の頃からすでに体重が110キロ近くあったりして、学校一のデブだったんですよ。そこからラグビーをやることによって絞れて、ある程度筋肉質になって80キロ台まで落ちたんですね。でも、プロレスラーになるとなったら、もっともっと体を大きくしないといけない。当時はそういう考え方だったので、とにかく体重を増やそうと。なので、食べて食べて筋トレする、というのが練習の中心でした」
しかし、負傷によって田中に転機が訪れる。2006年に肩を脱臼して手術。長期の欠場生活を強いられたのだ。
「思いっきりプロレスができない、満足にトレーニングもできない。それをなんとか治して久しぶりに人前に出るとなったときに、だったら何かを変えて出ていかないといけないと思ったんですよね。そのころ、復帰にあたりスタミナが心配だったので、主に走るトレーニングを取り入れるようにしていたんです。そしたらきれいな筋肉が見えるようになってきて、今まで見えなかった腹筋が見えてくるようになったんですよ」
体を絞ることがインパクトにもつながると考えた。トレーニングの結果が目に見えてわかるようになってくると、体調もグングンよくなっていった。そして田中は、カムバックするなりシングルリーグ戦「火祭り」を勝ち抜いた。これは2年連続の優勝で、その年に行なわれたジュニアヘビー級の祭典「天下一ジュニア」まで制覇する当時史上初の快挙。「火祭り」は翌年も優勝しており前人未到のV3を達成、当時のイメージが現在も衰え知らずで受け継がれていると言っていい。
「以来、体重を増やさないといけないという頭は一切ないです。半年休んで手術したのが、逆に正解だったなと思えますね」
もちろん、正解に変えたのは田中の努力。基本的にはこのときのトレーニング方法が現在のルーティンにもなっている。
「そのときから、基礎的な筋トレ、ウエイトトレーニングをしてから1時間の有酸素運動をするというのが日課になっています。筋トレでは上半身の日、胸の日、腕の日、脚の日、背中の日、肩の日、腹筋の日というように部位を細かく分けてやるようにしています。それだけではなく、たとえば腹筋をほかの部位の日に入れることもありますね」
こうなると週に7日をトレーニングに費やしている計算になる。ある程度の休養も必要と思われるが…。
「そうですね。ただボクの場合、巡業とかで試合があるときには、会場入り後にはあえて何もしないんですよ。脚がつるのを防ぐために軽く柔軟をするくらいで、何もしません。まあ、近くにジムがあったら行く場合もあるし、東京の試合で会場入りが遅い日とかはジムに行ってから会場に入るということもあります。ただ、基本的に巡業のときは会場では何もしません。これって、アメリカに行ったときに学んだんですよね。海外の選手ってほとんど会場では練習をしない。向こうの選手と会場をまわったときに、それが当たり前でした。それでやってみたらボクも全然調子は悪くならないし、むしろこっちのほうが合ってるなって思ったんですよね」
日本では、プロレスラーが試合前にもトレーニングを行なっているイメージがあるが、海外ではリングを使って練習している姿はほとんど見られない。試合で爆発させるのが、海外選手のやり方なのだろう。田中も、それに則った形を取っている。
「練習方法もずっと変わらないです。トレーニングへの意識が変わってからも変わらないし、変えることもない。でも、肩の手術をしてからは可動域が狭くなったぶん、ベンチプレスよりもダンベル中心にしたり、そういう細かいチェンジはありますが、基本的には同じです。それは年齢を重ねても変わりません。もしトレーニングの頻度を落とすと退化していってしまうのではと思うので、逆に時間を長めにしていこうという意識のほうが高いですね」
(後編に続く)