戦争体験がハングリー精神の源 オリンピックを目指した高校生が87歳の鉄人ボディビルダーになるまで【金澤利翼(前編)】




鍛えあげた肉体美を競うボディビルにおいて、衰え知らずの体をステージで見せ続ける男がいる。金澤利翼、87歳。2度の日本ボディビル選手権優勝、世界ボディビル選手権4位、40歳以上が集う日本マスターズボディビル選手権を通算14回制覇し、現在もJBBF(日本ボディビル・フィットネス連盟)に所属して活躍する現役の鉄人ビルダーだ。

トレーニングジム「広島トレーニングセンター」の会長にして、広島県ボディビル・フィットネス連盟の顧問も務める。そんな男の人生は、過酷な幼少期から幕を開けた。

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競泳選手からボディビルダーへ。原動力は“日本一”への思い

太平洋戦争の真っただ中で幼少期を過ごした金澤。食べるものにも苦労する時代であり、この頃は将来、自分がボディビルダーになるなど想像もつかなかったと言う。

「当時は食べ物がなくて本当に困っていました。母は百姓で、つくったものを子どもたちに優先して食べさせてくれました。団子汁やかぼちゃ、白いご飯を涙を流しながら食べていましたね。子どもの時に食べ物がなくてひもじい思いをしたことが、ハングリー精神のもとになったのかなと思います」

育ち盛りの子どもにとっては満足な食事量とはいかなかった。近所の畑に忍び込んでは作物を拝借しようと試み、畑の主に叱られることもしばしばだった。やんちゃで体を動かすことが好きだった金澤は、友人と池で泳ぐなど活発な生活を送っていた。やがて終戦を迎えると、培われた体力が活きる夢を見つけたのは高校生の頃。鮮烈な出会いだった。

「“フジヤマのトビウオ”と呼ばれた古橋廣之進さんの泳ぎを見て、自分も水泳をやりたい、1500メートル自由形で日本一になってオリンピックに行きたいと強く思いました。高校では水泳部でがんばりましたけど、私は足首が人一倍硬かったんです。脚の力で前に進まないといけないんですけど、私はほとんど腕で1500mを泳いでいました。上半身はめちゃくちゃ発達しましたけど、どうやら私は水泳向きではないなと悟りました」

水泳では挫折したが、“日本一”への夢はあきらめ切れなかった。そこで目を向けたのが、筋肉質な自分の体だった。ボディビルという新たなステージに目標を定めたのは20歳の時。未知への挑戦に不安はなかった。

トレーニングを始めた当時

「自分で言うのも何ですけど、当時は抜群にいい上半身をしていたと思いますよ。両親に手を合わせて、『5年でボディビル日本一になるから、私を養ってください』と頼みました。定職に就かないわけですから、もちろん簡単には許してもらえませんでした。鉄道員の父からは『お前はサラリーマンの子だから無理だ。日本一にはなれない』と拒否されました。でも、あきらめきれなくて繰り返し懇願し、やっとのことで説得しました」

とはいえ、当時はトレーニングに関する情報はほぼ存在しなかった。本格的な筋トレにも取り組んだことがなかった金澤は、セメントを固めたダンベルを自作し、がむちゃらに鍛えることからスタートした。初めてダンベルを握った時は「どう扱えばいいか、何もわからなかった」と回想する。

「とにかく毎日6時間、1種目20セット、がむしゃらに上げ下げしましたよ。やり方を勉強せねばと思って、外国の『Muscle Builder』という雑誌を本屋で買いはじめました。なんせ全部英語ですからね。辞書で英単語を引っ張り出してひとつずつ覚えていきました。海外の選手はこういうトレーニングをしているのかと感心しながら、毎晩勉強です。好きなことですからね。もう力を入れて勉強しましたよ」

ジムはもっぱら軍隊の施設に通った。3年間通い詰めたのは米海兵隊岩国航空基地だ。当時最新の機材が揃ったジムで鍛えていると、金澤の体に注目した兵隊たちから声をかけられることもあった。最先端のマシンも研究し、使い方を習得した。そうした努力の日々は嘘をつかなかった。

努力の末、悲願の日本一に輝いた

「3年間鍛えて日本選手権に出場しました。すぐに優勝はできませんでしたけど、計画通り5年目で1番になりました。その頃のトレーニングが私のボディビルダー人生のベースです」

その後も国内外で輝かしい成績を残した金澤は、広島県初となるトレーニングジム「広島トレーニングセンター」を創立。会長職に就くとともに競技を離れることになる。だがそんな中でも、選手としての心の炎は消えていなかった。

(後編に続く)

取材・文/森本雄大
写真提供/金澤利翼
写真(大会)/木村雄大