浅田顕さんの人生は、少年時代に見たテレビで方向性が決まった。画面の向こうに映るフランスの街並みと、自転車で快走する選手の姿はあまりに鮮烈だった。
自転車で一般道を長距離走り、チームでの勝利を目指すロードレース。そんな競技で1990年に全日本チャンピオンに輝き、本場・フランスでもプロとして活躍。東京2020オリンピックでは日本代表の監督を務めるなど、日本の自転車競技界に貢献している浅田さん。そんな彼の原点となったのが、世界的ロードレース「ツール・ド・フランス」である。
ツール・ド・フランスとは、ワールドカップ、オリンピックと並ぶ世界三大スポーツイベントであり、自転車でフランスを一周するという規格外のレースだ。その行程は23日間におよび、走行距離は3000km以上。2024年で111回目を迎えたこのイベントは、世界中のロードレーサーたちにとって夢の舞台に他ならない。
「とにかくかっこよさと、スケールの大きさと、あとは過酷さですかね。切り立ったアルプスの山脈を自転車で登っていくと、沿道にものすごい数の観客がいて、声援を受けながら限界ギリギリの勝負をしている。その興奮ですよね。こんな世界があるのかと思いました」
当時は野球少年だった浅田さんは、この出会いをきっかけにロードレースの世界に足を踏み入れた。中学校では競技を教えてくれる先生と出会い、大会で初優勝も経験。その先にはつねに、テレビで見たツール・ド・フランスの景色があった。
「野球はリトルリーグに入っていましたけど、まわりにすごい選手がたくさんいて、自分はこのスポーツでは無理かなと思っていました。そこで自転車競技と出会って、直感的に『いけるんじゃないか』と感じたんです。自分にできるのは、とにかく耐えること。速く走るというより、長い距離とかきつい坂とか、過酷な状況で耐えることに関しては自信があったんです」
高校卒業後は実業団所属を経て、本場・フランスのチームに所属した。1990年、22歳の時には全日本プロ選手権自転車競技大会でチャンピオンに輝いたのち、プロ選手として世界で戦うようになる。
「現役生活で大切にしたのは、やるかやらないか。惰性でやったことは一度もなかったです。最初は国内の実業団に入っていましたけど、やっぱり途中で、これは最初に見たツール・ド・フランスとは違うなと感じ始めました。本場・フランスのクラブチームで1シーズン走ったら、やっぱりここだなと。プロ契約が取れてからも、次につなげることがとにかく大変でしたから、気は抜けませんでした」
フランスでのプロ生活は過酷なものだった。立ち位置はつねに補欠の補欠。レースも不定期で、声がかかれば即参加する状況だ。2か月間レースがなかったかと思えば、次の月に10レースほど走ったこともあった。そんな中で諦めず戦い続けたからこそ、次の方向性を見つけられたと浅田さんは語る。
「自分自身、そんなにすごい選手でもなかったですけど、当時から日本の選手をたくさん見てきました。その中で、『この選手がこう走ったら強いんじゃないか』とか『この環境ならもっと輝けるんじゃないか』とか、いろいろなことを考えました。自分がツール・ド・フランスに出られるとは思いませんでしたけど、他の日本人選手ならできるんじゃないかと。それが監督・コーチやチーム運営に舵を切った理由ですね。ヨーロッパの選手はツール・ド・フランスを目指す気持ちが強いですし、プロ契約からその舞台に立つまでの道筋が明確になっています。日本はそういう面がまだまだなので、そこからの見直しが必要だと思いました」
1996年、13年間の現役生活を終えたのちに掲げた目標は、「世界で戦えるプロ選手を日本から輩出すること」。指導者として、浅田さんの夢の第2章が始まった。
(後編に続く)