素直すぎるSNSの言動で界隈をざわつかせることもある茨城のボディビルダー・三島流平。2023年には日本代表選手として国際大会にも出場した彼は、もともとキックボクシング出身。そのルーツを探るべく、幼少時代の話を聞いた。
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――小学生のときに格闘技を習いはじめたと聞きました。
「小学校5年生のときだったと思います。父が格闘技好きだったのですが、まぁ怖い人だったんですよ。それで、そんな父から逃げたくてボクシングをはじめました」
――逃げたくて、とは?
「学校が終わってすぐ帰ったら、家に父がいるんです。でもジムに行けば顔を合わせずに済むので、その時間のぶん逃げれるじゃないですか。父は格闘技が好きなので、私が『ボクシングジムに通いたい』と言ったら、なんなくOK。なので、真面目にボクシングをやりたかったというよりは、とにかく父から逃げたくて始めました。ジムに行ったふりをして、ウェアを水で濡らして帰ることもありましたよ」
――今は茨城を拠点に活動されていますが、当時は東京に住んでたんですよね?
「はい、出身は東京の葛西です。たまたま家の近くにボクシングジムがあったんです。スタートはそんな感じでしたけど、プロボクシングの前座試合、ちびっこボクシングって言ったかな、今で言うエキシビジョンマッチみたいな形で、後楽園ホールで試合をしたこともありました」
――ボクシングはいつまで続けていたのですか?
「中学校2年生までです。実は、てんかんという脳の病になってしまって。大人になるまでずっと調子が悪かったです。ボクシングは脳にダメージが残る可能性がある競技なので、それを機にやめることにしました。ただ、身体を動かすのは好きだったし、当時はTVでK-1も放送されて盛り上がっている時代だったので、格闘技も好きでした。なので、高校生になる頃には薬を飲んでいればてんかんの発作は起きなかったので、今度は柔道部に入部し、最終的には段位2段までとりました」

――スポーツに対してはすごく真面目に取り組んでいたんですね。
「地域的には荒れているところだったんですけど、自分は結構、真面目なほうだったと思います。ヤンチャではあるのですが、悪さはするわけではなく、やっぱりスポーツがすごく好きで。あと、その頃から目立ちたがり屋みたいなところがあったので、当時放送していたTBSの『筋肉番付』の姉妹番組、『三色筋肉』に自分から応募して出場したこともありました」
――腕立て伏せ、腹筋、背筋の3種目の回数を争う競技ですね。
「17歳、高校3年生のときでした。その後に『SASUKE』からもオファーがきて、大人になってからチャレンジしたこともありました。そこで、『TVに出るのってなんかいいなぁ』なんて思っちゃって、俳優を目指して養成所に通ってみたり。芽は出なかったですけどね(笑)」
(第2回へ続く)