『全長1.47mの大怪獣』。東京女子プロレスの旗揚げメンバーである中島翔子の二つ名は、これ以上なく中島のことを表している。小柄ながらその筋力・運動量は他の追随を許さない。中島はいかにして、他のレスラーも羨むこの身体能力を手に入れたのか。中島の体づくりの秘訣に迫るインタビュー全3回の第1回は、学生時代に打ち込んでいた運動についてのお話。

特撮や読書が好きなのに陸上部へ…部活で浮いていた
中島翔子は新潟県出身で、新潟の中でも豪雪地帯で育った。そのため、小学校から授業でクロスカントリーをやっていた。
「クロスカントリーは体育の授業に組み込まれていて、小学校1年生のとき…物心ついたときにはクロスカントリーをやらなきゃいけないという感じでした。学校のグラウンドだったり、学校の周辺の公道にコースがひかれたりして。中学時代は人数が少なくて、女子が入れる部活が陸上部と卓球部しかなかったんです。それで夏は長距離、冬はクロスカントリーをやっていました。高校に入学するまで9年間ですね、クロスカントリーは。長距離の方は、部活が『駅伝をがんばろう!』という方針だったので、3km~5kmでしたね」
中島の今のファイトスタイルを鑑みると、この時点で心肺機能が鍛えられていたことが役に立っていたように思うのだが…。
「今となってはそう思うんですけど、実は私は部活の中で運動ができない方だったので…。同じ大会に出ていた男子の中には、オリンピックに出た選手もいますから(笑)。しかも私は特撮が好きでずっと読書をしているような、部活の中ではちょっと浮いている感じだったので。運動をするタイプではない子はみんな卓球部に行ったんですけど、自分に厳しい方に行きたい気持ちというか中二病みたいな感じで。なので、小学校時代の担任の先生にも、プロレスラーになったことはびっくりされましたね。でもその先生は、私に中学校でも運動を続けてほしいと言ってくれていたんです。私は運動が苦手ですけど、がんばっているのは知っていてくれていたので」
今や中島といえば運動神経の塊ともいえる選手だけに、なかなか信じがたい話ではある。
「全然です。今でもできないことだらけですよ。もっともっとクオリティの高い選手を見ているので、そこに至るまでまだ練習不足だなといつも思っています」
「プロレス=見てはいけないもの」だった環境で育つ

その中島、高校に入り演劇にのめりこんでいく。そしてお笑い芸人を目指すことになる。
「高校は演劇部だったんですけど、ランニングは3年間続けたんですよね。結構体力系を大事にする演劇部に入ったので、部活が始まる前に走るような演劇部で。プラスして、授業前に陸上部の朝練にしれっと合流して走っていました(笑)。始発に乗って高校に行って、『アイツ何部?』みたいな目で見られながら走って、一時間目は寝ているという(笑)。受験シーズンに入るまではランニングはずっと続けていて、受験自体は途中でサボっちゃって芸人を目指しました。実は高校生向けのM-1の予選に出ていまして。『学生芸人』という括りがあって、そういう子たちが集まる大会に出ていました。高3の夏休みに、予選を突破して2回東京に行くことになって、お笑いの方をがんばってしまって受験をサボっちゃいましたね。夏期講習の申し込みをしていたのに全然行かなくて…親はめちゃくちゃ心配していましたね。でも、もう養成所に入ることしか考えていなかったので、受験を辞めてアルバイトしてお金貯めるね、と。当時は、新潟から東京に出て来たときに感じたギャップを喋っていました。新潟だとこうだったけど、東京に来ると常識が違うみたいな感じですね、内容は全然覚えていないんですが(笑)」
そんな中島は幼少期から「プロレス」の四文字を知っていた。父親が風呂場で専門誌を読んでいた。
「父親がめちゃくちゃプロレスが好きで、父方の実家に橋本真也さんがパチンコのイベントで来たときにもらった色紙を額に入れて飾ってあるくらいで。でも、私の家自体は血が出たり格闘技だったりが苦手で、父親がお風呂入ったときに専門誌を読んでいたんでしょうね、脱衣所に置いてあったので。そんな環境だったので『プロレス=見てはいけないもの』みたいな…ちっとエッチな雑誌と同じ気持ちでした(笑)」
その中島の運命を変えたのは、芸人として活動を始めて少し経ったときの出会いだった。
「当時、売れていない芸人さんがアルバイトをする飲食店があって、その店長を任されていたヨッシャ比留間さんという方がいるんですが、その方がプロレスに連れて行ってくれたんです。そのときに、比留間さんが隣で解説をしてくれるんですよ、選手の情報を。プロレス自体も、キャラクター性があってすごく面白く感じたんですよね。自分でもやってみたいと思うようになったんですけど、いきなりプロレスラーになるのは絶対無理だと思いました」