「180万円の人力車を壊してしまって……」体ひとつでユーザー満足度を追求、女性俥夫の研修時代




幼少のころからピアノを弾いていた少女は、あるときアナウンサーを志す。しかし、就職活動がなかなかうまくいかない。そんなときに出会ったのが「人力車」。そういえば小さいころに祖父と乗ったことがあった。その祖父とはラジオをよく聴いていた。あ、ラジオのDJという道もあるか…。点と点がつながった“人力車店長DJ”関森ありささんの物語。全3回の第2回は人力車研修時代とDJになるきっかけのお話。

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180万円の人力車を壊してしまうも、姫路から声がかかり一念発起

東京には人力車の会社が複数社あるのだが、関森ありささんが受けた一社目は不採用になってしまう。二社目に受けた浅草寺雷門前をベースにする「観光案内人力車 天下車屋」と縁があった。

「正直なところ、アナウンサー試験も受けているんですが人力車もやってみたくて、という軽い気持ちでした。今だから言えますけど、エントリーシートに書く武器のために3か月くらいでやめようと思っていたので。家族にも反対されましたし。アナウンサーを目指していたのに、人力車ってどういうこと?って。人力車の研修がスタートしたのが、大学4年生の7月でした。アナウンサー試験は同時進行です。しかも、高校時代の仲の良かった子はアナウンサーの内定をもらっていて、小さいころの知り合いも放送局から内定が出ていて…周りは受かっているのに私は人力車か…という複雑な思いを抱えながら、研修に臨んでいました」

その気持ちが大きく変わる事件が起こる。

「小さいころからスポーツをやってきたわけではないので、力が追い付いていなかったのか人力車の研修中に大きな失敗をしてしまったんです。研修がスタートして2~3週間後ですかね、当時の店長を人力車に乗せてバックの練習をしていたんですが、途中で手を離してしまって、人力車が後ろに倒れてしまい壊してしまったんです。クッションがあるのでケガはしなかったんですが、180万円の人力車を壊してしまって…。

当時の浅草の店舗の人たちも、ちょっと教えるのは大変かな、と。私も全然できなくてがっくり来ているときに、社長が『姫路にあるもうひとつの店舗に来たら教えてあげる』と言ってくださって。エントリーシートに書くという目標もありましたし、その年の8月に、1ヶ月間朝から晩までずっと姫路で人力車の練習をして、10月に浅草でデビューできました」

ここで関森さんは人力車のコツをつかむ。じつは人力車をひくには、それほど力が必要ないということを。

「人力車はテコの原理で動かすので、意外に筋肉は使わないんですよ。前についている棒を持つ場所を調節して、軽くなるポイントを見つけてしまえばバランスがよくなってすっと持ち上がるんです。自分の持ち方や、乗っている方の体重によって、そのポイントが変わるので、一番軽いところを探して操作しています。じつは空運転が一番重いんですよ。

人が乗っているときは、その体重でスピードに乗るんですが、空運転は自分の力で引っ張らないといけないので、押してくる力がなくて重いんですよね。ただ走るのはちょっと…研修を始めたのが夏だったこともあって、最初は5分でバテてしまいました。こんなにも大変なのかと。それで家の近くの公園でジョギングをして、体力をつけるようにはしていましたね」

ラジオがいつもそばにあった祖父との思い出

週の半分はラジオDJとしてマイクの前に座る(写真提供/関森ありさ)

エントリーシートに「人力車」を書けるようになった関森さんだが、もちろん経験に乏しいためエピソードが全然出てこなかった。

「面接で人力車についてのエピソードを聞かれるようにはなったんですが、数か月経験しただけではあまりなくて…。最終面接まで通った局もあったんですが、内定をもらえなくて年を越しました」

そんなときに祖父ががんを患ってしまう。

「大学卒業直前ですか、祖父が大腸がんになってしまって。ずっと病気持ちで目があまりよくなかったこともあり、よくラジオを聴いていたんです、私も一緒に。祖父のそばには、つねにラジオがあったというくらいでした。

そのときに『今まではテレビ局ばかり受けていたけどラジオの道もあるのか』と思って、祖父とのラジオの思い出もありますし、祖父のように目のよくない方でも楽しめるラジオっていいなとふと思ったんです。それでラジオにも目を向けてみようと思ったところ、たまたま地元・江東区のレインボータウンFMが募集をしていたんです」

関森さんは、大学卒業直後にレインボータウンFMに入社が決まった。

「面接をして、すぐに〇日に来てくださいみたいな感じでした。卒業式は内定ゼロのまま出席して、アナウンサー試験も100社近く落ちて今は人力車をやっているんですが、という話をしたところ『人力車を続けるんだったら採用する』と言われまして。ダブルワークを推奨している放送局なので、人力車に乗ってくれたお客様がラジオを聞いてくれたり、逆にラジオのリスナーさんが人力車に乗ってくれたりという相乗効果があるでしょ?だから『人力車DJ』でいいんだよ、と。

もちろん最初はADからスタートして、DJもやるようになったんですが、最初に裏方の仕事ができたのは本当に良かったですね。裏のスタッフの仕事や気持ちを知っていた方が、表舞台に出たときにありがたさを感じられますし、そういう気遣いをしてくださる方々がいるから自分が表舞台に立てているという気持ちも大きくなりますしね」

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