練習、雑用、深夜バイトに明け暮れた日々 奮起した新人レスラーが「モノが違う女」になるまで




プロレスラーとして、格闘家として、両ジャンルで頂点を極めた女子選手は、いつしか『モノが違う女』と呼ばれるようになった。細身の体ながら、投げてよし、蹴ってよし、極めてよし。スターダムの朱里は、現在の女子プロレス界における“強さの象徴”といえるだろう。新日本プロレスの10.13両国国技館大会で、IWGP女子王座に2回目の戴冠を果たした朱里の体つくりの秘訣に迫るインタビュー全3回の第1回は、空手・陸上・テニスに明け暮れた彼女がプロレスラーになるまでのお話。

練習しないと上に行けない…練習しすぎて足首を疲労骨折したことも

「モノが違う女」朱里の新人時代とは?(写真/橋場了吾)

【写真】朱里の試合カット&決めフォト

朱里のプロレスラーとしてのスタートは、2008年10月。空手経験者という触れ込みのKG(Karate Girlの略)として、ハッスルのリングでデビューした。とはいえ、朱里が習っていたのは空手の型で、相手選手と対戦するものではなかった。

「型の練習が中心のメニューに取り組んでいました。組み手も寸止めで。小学校の頃に、空手の先生に大学の練習に連れていってもらい、型の練習のほかに1~2時間ずっと突きの練習をしたりしていました。足の疲労がやばくて足の裏も擦りむけて、階段を登れなくなったこともありましたね。大学の練習にまで連れていってくださるってことは、今思うと目をかけてもらっていたのかなと勝手に思っています。空手は中学1年までやっていました」

朱里は空手だけをしていたわけではない。小学校の頃は、空手のほかにダンス・水泳・ソロバン・卓球という多彩ぶり。そして中学校では、バスケットボール部を経て陸上部に入部した。

「最初陸上部では短距離だったんですが、先生から中距離に向いていると言われ、800m・1500m・駅伝をやっていたのでめちゃくちゃ走っていましたね、休みの日も。負けず嫌いなので(笑)。練習しないと上に行けないとずっと思っていたので、練習のしすぎで足首を疲労骨折したこともあります。体力があったというか、つけざるを得ないですよね(笑)。もう“スポーツ女”という感じでした」

高校時代は公式テニス部に入部。ドラマの影響だった。

「(中学時代に)走りすぎたので、高校では違う部活に入ろうと思っていました。それと、当時『エースをねらえ!』というドラマで、上戸彩さんを見てすごいカッコいいと思ったのもあります(笑)。テニス未経験だったので一番できなかったんです。でも負けず嫌いなので、すごく練習して、学校のランキング戦で1位になって部長にもなりました。そして毎日部活の練習前に45分は絶対ランニングを…部活の皆も一緒に走って体力をつけるためメニューに組み込ませてもらっていました(笑)。私のテニスは泥臭いスタイルでしたね。スパンとカッコよく決めるのでなく、ボールを拾って拾って相手のミスを誘うみたいな。コートのギリギリのラインに落として、相手が根負けするのを待つ粘りのスタイルでした」

女優を目指していたがプロレスラーになり悔しさが溢れる日々

キックボクシング仕込みの強烈なサッカーボールキック(©スターダム)

高校卒業後、女優を目指していた朱里は本格的に活動を始めた。

「舞台には出ていましたが、芽は出ませんでしたね。そんなときにハッスルのオーディションがあるから受けてみないかというお話があったんです、“タレント枠”として。ただ、当時はプロレスを見たことがないですし、何なら自分は戦うことが好きじゃないので…普段は平和主義者なので(笑)。なので、ハッスルのオーディションがプロレスとの出会いだったんですが、オーディションで空手の型をやったので、KGになったんですよ。3か月練習してデビューさせてもらったんですけど、すぐ試合をして全然タレント枠ではなかった気がします(笑)。

学生時代に培った体力は活きていましたけど、プロレスはぶつかる・受けるという今までとは全く違う練習もありましたし、雑用も多かったので…。しかも交通費込みの給料10万円が1回出て2年未払いだったので、深夜のアルバイトをして、寝る暇なくて本当にヤバかったんですよ。でも、今ではなかなか経験できないことですし、辞めずに続けてきたからこそ今があるとも思います。当時は女優さんを目指していたので、細くなりたい・きれいになりたい気持ちも強くて、お客さんからは『あんな弱っちいやつに何ができるんだ』みたいなことも、よく言われていて、それが悔しかったんですよね。それで、プロレス以外の持ち味を作りたいと思って、キックボクシングを始めました」

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