VITUP!読者の皆様、こんにちは。日曜日のひととき、いかがお過ごしでしょうか?
去る9月18日、格闘家の山本KID徳郁選手が41歳の若さで亡くなりました。8月26日にガン闘病を告白してから1カ月足らず。多くの格闘技ファンを魅了してきた人気ファイターの早すぎる死に、言葉を失いました。
私にとって徳郁は戦友でした。学年が一つ違いで体重が近かったこともあって、小学生の頃からその存在はよく知っていて、三度の対戦経験があります。私は小学3年生からレスリングを始め、選手として13年間で何百試合と闘っていますが、ほとんどの試合のことは覚えていません。しかし、高校2年の春に彼と闘った2試合は、今でも鮮明に覚えていて、一つひとつの攻防がしっかりと記憶に刻まれています。
徳郁との試合が印象に残っている理由はハッキリしています。それは彼が怖かったからです。試合が怖いとか、相手が怖いと思ったことは、他にはありません。日本一をかけた試合や日の丸を背負っての試合は当然緊張もしますが、怖いと思ったことはありませんでした。だけど徳郁と向かい合うのは恐怖でした。それだけ彼が持つ空気感は特別だったのです。
オリンピック選手の父を持つ彼は、子どもの頃から毎年全国大会で優勝を飾り、常に注目を集める存在でした。全国中学生大会でも、2年生、3年生で連覇を果たして高校レスリング界にデビュー。その最初の大会の決勝戦で対戦しました。さらに1カ月後、インターハイ予選での彼との試合は、私にとって生涯のベストバウト。対戦相手が徳郁だったからこそ、心の底から燃えるような闘いができたのだと思います。
この対戦から数カ月後、彼はレスリング留学のため渡米。以降は階級が違ったため、対戦する機会はありませんでした。私はその後も素晴らしいライバルたちと出会いましたが、一番燃えられた相手は間違いなく徳郁でした。格闘技は一人ではできません。相手がいるからこそ成り立つものであり、ライバルの存在が自分を強くしてくれます。のちにプロの格闘家としても彼は、幾多の名勝負を残してきました。私と同じように対戦した選手たちは、山本KID徳郁という選手を前にして、心の底から燃えることができたからこそ、そんな熱い試合が生まれたのではないでしょうか。
私は大学卒業と同時に現役を引退し、取材される側から取材する側へと転身しました。一方で徳郁はレスリングの枠を飛び出しプロの世界へと羽ばたき、2004年の大晦日「K-1 Dynamite!!」での魔裟斗戦をはじめ、須藤元気戦、ホイラー・グレイシー戦など、気持ちのいいくらいの真っ向勝負でファンを魅了し続け、輝きを増していきました。
彼の活躍は私にとって誇りであり、仕事をしていく上での励みにもなっていました。どんなリングでどんな相手と闘っても負けてほしくない。自分はもう闘うことはできないけど、最高のライバルにはいつでも最高でいてほしい。そんな思いで報道の立場でありながら、心の中ではいつも彼を応援していました。
そして約1カ月前、徳郁はとてつもなく強大な敵と闘っていることを自身のInstagramで告白しました。それが勝ち目のない闘いであることは本人も感じていたはずです。それでも目の前の敵からは逃げない。最後まで勝負は諦めない。そんなファイティングスピリットを示すために、あえてあのタイミングで公表したのかもしれません。
どんな相手にも負けてほしくなかった。でも、きっと最後まで彼らしく闘ったんだと思います。物心ついたときからずっとノンストップで闘い続けてきたのだから、今はとにかくゆっくり休んでほしいです。私は徳郁と本気で闘ったことを誇りにこれからも精一杯頑張っていきます。
1975年8月27日、神奈川県出身。学生時代はレスリング選手として活躍し、全日本大学選手権準優勝などの実績を残す。青山学院大学卒業後、ベースボール・マガジン社に入社。2007年~2010年まで「週刊プロレス」の編集長を務める。2010年にライトハウスに入社。スポーツジャーナリストとして数多くのプロスポーツ選手、オリンピアンの取材を手がける。