素直すぎるSNSの言動で界隈をざわつかせることもある茨城のボディビルダー・三島流平。2023年には日本代表選手として国際大会にも出場した彼は、もともとキックボクシング出身。幼少時代の話に続き、今回は大人になりキックボクサーでプロデビューするまでの話を聞いた。
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――三島さんのSNSには、若かりし頃の写真も多く投稿されています。
「20代の頃は、ちょうど“ギャル男”が流行ってた頃で、当時は筋トレなんていっさいせず、髪の毛の襟足をひたすら伸ばして、毎日、日焼けサロン行って(笑)。 大学も興味なくてただ遊びたいっていう気持ちばっかりだったので、適当にアルバイトして、夜はクラブに行く。流行りに流されるまま、当時は大型トラックのドライバーもやりましたよ(笑)」
――チャラチャラと華やかですが、その後に再び格闘技の道に戻るわけですよね。
「20代半ばになると、だんだんと自分の老いを感じてきたんですよ。それまでは何の努力もしなくても、華やかに、いろんな人からチヤホヤされて楽しかった。だけど、ある年齢を過ぎてから、自分の身体で『あれ?』と感じることが増えてきたんですよ。『年をとりたくない』という思いもあり、アンチエイジングのために格闘技を再開しました。当時は、キックボクサーの魔裟斗選手が大活躍してた頃で、やっぱり格闘技ってカッコいいなって思って」

――中学生の頃に発症したと言っていた、てんかんの病気については?
「その頃はもう治っていました。それが26歳のときですね。茨城県土浦市にある、かなり廃れたジムでキックボクシングを始めました」
――以前住んでいた東京(葛西)から引っ越してきていたんですね。
「その3年くらい前だったかな。 東京の電車生活がすごく嫌で、西葛西駅とかは常に満員電車。田舎暮らしに憧れて茨城に来ました。家賃も安いし、車も乗れるし、満員電車に乗らなくていいし、東京までも1時間くらいの利便性ですから」
――結果的に、格闘技選手としてデビューすることに。
「アマチュアとしてデビューしたのが、『3.11』の後、27歳のときです。アマチュアでは16戦で9勝、そのうち8戦はノックアウト勝ちですよ。まぁ7回負けてるんですけどね(笑)。そのままアマチュアの全日本チャンピオンになって。K-1のアマチュア大会である『K-1 CHALLENGE』が新たにできて出場したときに、プロのオファーも届きました」
――いよいよプロデビューに近づいて。
「そうです。K-1のグループであるKrushという団体でプロデビューしました。30歳でアマチュアのチャンピオンになって、31歳でプロのキックボクサーデビュー。最初はキックボクシングのジムに所属していたのですが、廃れたジムだったので、空手の道場に入門し、 空手の稽古をしながら個人的にキックボクシングの試合に出ていた感じでした」
――夢の舞台を手に入れたんですね。
「とはいえ、当時は工場で働きながら試合に出ていたのですが、ファイトマネー分のチケットを売るとか、営業的なこともしなくちゃいけなかったんです。プロの世界って厳しいなと 実感し、これでは食べていけないなと悩んでいました。やめるつもりは全然なかったのですが、どうしようかと迷っているときに、プロデビュー戦で戦った相手の方から『リュウちゃん、今フィットネスがすごい盛り上がってきてるみたいだ。すごく良い身体をしてるし、 ボディビルやってみたらどうだ?』と、飲みの席で言われたんですよ。なんかいい気になって、『俺にはそんな才能があるのか?』って思い上がっちゃって。彼が 『じゃあ今度はボディビルの世界で俺と戦おう』って言うもんだから(笑)、もう次の日には茨城のボディビルジムを探し、取手の『スポーツジムWIN』に入会してました」
(第3回へ続く)