“コロナ失業”を経てボディビルに復帰「1週間あればコンディションも結果も変わる」を実感した2022年




2017年にボディビルデビューを果たした三島流平。着実に実績を積み上げ、結果として2022年には茨城県チャンピオンも手にすることになる。決して平たんではなかったその道のりを、振り返ってもらった。

【フォト&ムービー】2022年の三島さんのステージショット

――もっとも注力していたであろう、茨城県ボディビル選手権でのデビューしてからの戦績を教えてください。

「最初は2017年に8位、翌年は5 位でした。そして2019年に、昨年のIFBB男子ワールドカップにも出場した横関裕二選手と優勝争いをして、僕は準優勝。ちなみにこの年は、神奈川県のオープン大会にも出場して、初めての優勝をいただいています」

――「スポーツジムWIN」のオーナーである齊藤要さんに言われた「2年でチャンピオン」を達成ですね。

「まぁ2年は2年なんですけど、オープン大会ですし、そこまでレベルが高いというわけではなかったので。ただ、やはり初めて優勝したことで『これから全国だ!』と心を燃やしていたのですが…。コロナ禍がやってきて、結局2022年まで大会には出られませんでした」

――2020年は、日本ボディビル・フィットネス連盟(JBBF)主催大会は全て中止。一部の団体は制限がありながら開催を続けていたという状況でした。

「僕自身も、実はコロナ失業をしてしまい、その後は新しい職場に馴染むのにも時間がかかったので、なかなかボディビルに取り組むことができずに2022年まで延びてしまいました。この年は、まずは自分の実力を確かめたいと思い、マッスルゲート(ゴールドジムが主催する“誰でも出場できる”コンテスト)の熊本大会(7月3日)に出て、ボディビルとクラシックフィジークで2冠をとりました。そのときに、『月刊IRONMAN』にデカデカと載せていただき、これはいいなとワクワクしちゃって」

――もともと学生時代からTVに出たり、格闘技の世界で戦ったりと、スポットライトが大好きな人生ですからね。

「はい(笑)。それで、次はマッスルゲート東京スポルテック大会(7月27日)だったかな。そこでボディビルは優勝、クラシックフィジークは神奈川県の名選手である持田教利選手に敗れて準優勝。でも、そこでの反響がすごく大きくて『やっぱりボディビル楽しいな』とドンドン思い始めて、その流れでJBBF主催の日本クラシックボディビル選手権(8月14日)に出場しましたが、そこでは予選落ちでした。ところがですよ、その1週間後に北九州市で行われた日本クラス別選手権(8月21日)の 80kg以下級では、なんと決勝に残ることができて6位入賞。ボディビルというのは 1週間あればコンディションは変わるし、それで結果も変わるんだと気付き、のめり込んでいくきっかけになりましたね」

――連戦、連戦で、さらには日本クラシックフィジーク選手権(9月4日)の175cm以下級でも4位でした。まさにトントン拍子で結果がついてきた。

「ありがたいことです。ただ、いろんな方にちやほやされて始めたボディビルだったけど、さすがに全国大会で戦っていけるような才能はないと思ってたんです。だから、まずは茨城県チャンピオンになることがすごく大きな目標だったんですよ。ところが、この頃は茨城県のボディビルが消滅しかけているような状況で……」

――SNSで三島さんの投稿に注目が集まっていたと記憶しています。

「当時の茨城県ボディビル連盟はいろいろと問題を抱えており、例えば、一度茨城県連盟に選手登録をしたのにも関わらず、それが無効になってしまい、もう一度個人登録し直さなくてはいけなくなって二重でお金を払うという状況がありました。それだけでなく、その年の9月11日に行なわれた茨城県ボディビル選手権は、もはや伝説とも言える“公園ボディビル”だったんですよ」

(第5回に続く)

▶次ページ:三島流平のステージフォト&ムービー2022