「私、ちょっと疲れやすいかも…」そう思った少女の体は、数日で10㎏近く体重が増えてしまった。診断結果は『ネフローゼ症候群』。血液中のたんぱく質が異常に尿に漏れ出してしまうことで、むくみが起こるという病気だった。
そしてその闘病中に、副作用が出るリスクを理解しながらもステロイドを服用し、両側距骨壊死を発症し下肢障碍に。しかし、彼女にはスノーボードがあった。橋口みどりは今、パラアスリートとしてパラリンピック出場を目指している。インタビュー全3回の第2回はスノーボードとの出会いのお話を。
闘病中の子たちと一緒に過ごせたことは良い経験だった

話は前後するが、橋口みどりがネフローゼにり患したばかりの闘病生活では、いわゆる一般的な学校生活を送ることができなかった。
「私は小児科に入院していたので、病院の中にある学校「院内学級」に籍を置き、入院中はそこに通っていました。その学校には白血病や小児がんなど、いろいろな病気の子がいました。治療のタイミングによってはマスクをし、点滴の入った手で鉛筆をとり勉強に励んでいる子もいました。
そういう世界が私の日常になって、世の中には、(当時の)私より小さい小学生や幼稚園ぐらいの、外で駆け回って遊びたいだろう子たちが、健康に過ごすことを目標につらい治療に向き合ってがんばっている姿を間近で見られましたし、そんな子たちと一緒に過ごせた日々は、今の自分の大事なベースになっているんです。逆に私が健康だったら、そういう時間を過ごせなかったですし、今となってはとても貴重な経験ができたなと思っています」
あれだけ滑れていたのに……悔しい気持ちで逆に火がついた

橋口は高校時代にスノーボードと出会うことになる。出身は東京都清瀬市で雪とはほぼ無縁の生活をしていた。
「高校のときに体験学習というのがあって、スノーボードをやれば単位が取れたのでよこしまな気持ちで始めたのが最初でした(笑)。結局、高校生のときも体育はほぼ見学だったので、ちゃんとしたスポーツというのはスノーボードが初めてでしたね。高校卒業後は普通に就職したんですが、休みの日はスノーボードを趣味として楽しんでいました。
25歳のときに、バックカントリーのツアーに参加したんですが、そのときに見た景色にすごく感動して、その出来事が人生のターニングポイントになりました。スノーボードには、こんな素晴らしい世界が広がっているんだなと。
そのあと、室内スキー場のインストラクターもやっていました。でも27歳のときに両足の痛みが出てしまって……診断が出てからも痛み止めを飲んだりテーピングをしたりして、入念なケアをして滑るくらい好きだったんですよ。それで無理がたたって、痛くて歩けなくなるくらい悪化して、左足首の手術をすることになりました。
手術をしたら関節が硬くなるのはわかっていたので、スノーボードは難しいだろうなとあきらめていたんですが、いざスノーボードのない人生って喪失感というかこんなに楽しくないんだなと……。その様子を見かねた友人が気分転換で連れて行ってくれたんですが、全然足が動かないので滑れなくて、緩斜面ですらまともにターンできない感じで。逆にできなくなってしまったことがすごく悔しくて、その日の夜は眠れないくらいで……こんなに下手になってしまったのかと。気晴らしのつもりが、さらに落ち込む結果で。
でも、その悔しい気持ちがあったことで、私はスノーボードを諦められていないんだなと気付けたんです。『楽しかった』ではなくて『悔しかった』おかげで、逆に火がついたというか。それで、ここまで自分の気持ちを奮い立たせるものに出会えたなら、自分が納得いくまでやろうと決めたんです。もっとうまくなって、自分が納得できる滑りをしようと」
こうして橋口はパラアスリートの道を歩むようになる。しかし、同じ症状でスノーボードをしている選手はほぼいなかった。つまり、参考になる滑りがなかった。
「見本になる人の滑りを見てそれを真似するのが、一番上手くなるのが早いじゃないですか。でも、その人がいなかったんです。それでネットで動画を漁っていたら、障碍者スノーボード大会の動画を初めて見て、その動画で見た選手の滑りが衝撃的で。私はインストラクターをやっていたので、基本のフォームが大事だと思っていたんです。
でも、ハンデのある選手の滑りは、アンバランスではあるけれども早いし崩れない。そのときに、綺麗に滑るだけではなくて、こういう姿を見せていくことの素晴らしさに衝撃を受けたんです。それで障碍者のスノーボード大会に出ることを決めました」(12月10日、5時30分公開の#3に続く)
