もともとは「修行」だった
――そもそも「ヨガの定義」というものはあるのでしょうか。
非常に曖昧だと思います。語源すらも変化し続け、もともとの語源を理解してヨガを行なっている人は本当に少ないと思います。ただ、「陰」と「陽」という相反するものをつなぎ、その間を行き来しながら中庸を探していくという、自分の中の小宇宙と外の世界の大宇宙との一体化を図る、これが広義におけるヨガではないでしょうか。
伝統的な流派はその先にあるもの、つまり「インドの神様に帰依する」という目的意識も持っています。「ヨガの八支則」というものがあって、煩悩を捨てて、徐々に解脱して三昧の境地に入っていくと。本当は瞑想だけで解脱するようなのが、本来のヨガの在り方です。それが困難なので、体をツールにして神に近づいていくというのが、一般人の神様への帰依の道なんです。一番慣れ親しんでいるはずの己の身体で、この世の中のいろんなことを試していきましょうということです。少林寺の道場をイメージすると、わかりやすいかもしれません。毎日毎日、身を粉にしながら同じ型を繰り返して、神に近づこうと。ただ、それは現代の私たちが愛好するヨガとはかなり違うものです。
――もともとは宗教上の「修行」だったのですね。
そうです。ヨーガスートラという、仏教で例えると般若心経のような経典もあるんです。百八個ある数珠、首輪、首飾りをつけたおばあさんがヨーガスートラを唱えながら、小さな子どもが悪さをしたら「そんなことをしたらヨーガスートラの何章何節に反するよ」と。もともとは、そういうものでした。
――なぜそういったものが「健康」と結びつき、フィットネスとして世に広まっていったのでしょうか。
アメリカで流行ったことがすごく大きいのではないでしょうか。社会的に発信力がある普通の人たち、例えばニューヨークで素敵なキャリアウーマンがヨガマットを持って、と。食生活とか洋服とか、ヨガというものは間口が広いのです。例えば玄米菜食、漢方、アーユルヴェーダ、アジアン雑貨。いろんな側面から取り組みやすく、また文化的にも流行りやすい。さらに、社会が経済的な成長を成しえたときに、人はスローダウンして「呼吸」などに惹かれるようになる。ヨガには、ただ体を動かすだけではなく、独自の呼吸がある。それが西洋人にはエキゾチックなものと感じられたのではないのでしょうか。
――ヨガという東洋で生まれたものが西洋に渡り、それぞれの国や地域の文化で解釈、アレンジされたものが広がっていったということですか。
そう思います。もともとインドで体を使うヨガを行なっているのはサドゥーと呼ばれる出家信者が中心でした。サドゥーたちは断食など自分を犠牲にしながら神に近づこうとします。そういったことを実践する際には、様々な身体内操作が必要になります。喉や肛門、お腹の深部などをコントロールするのですが、それらは本来は「秘めたる操作」で、人前でやるべきものではありません。ヨガが流行り始めた当初にSNS、当時はmixiですね、そこにそれらのポーズを「かっこいい」と思った方々が自慢のポーズをプロフィール写真としてアップしていました。
しかも、ほんの1秒できるかできないかのようなポーズを「撮って撮って!」と。ああいったポーズは、秘めたる操作をした結果、できるものなのです。昔の偉い先生の中には、「かっこいい」と思ってポーズ写真を自慢するのは言わば自分の排せつ物を見せているようなものだ、恥を知れと仰る方もいました。私もそう思います。
取材・文/安 多香子 写真提供/テンセグリティー・ヨガ事務局
1961年、愛知県名古屋市出身。ACOYOGA代表。愛知大学法経学部経済学科卒業。米国オレゴン州ポートラド州立大学心理学部卒業。ヨガ道場にてハタヨガを学んだ後、内外のスタジオ、ワークショップ、TTにて各種ボディーワークを習得。日本におけるヴィンヤサヨガの草分け的存在として多くのインストラクターに影響を与えている。20年以上にわたる指導経験の後、行き着いた現在のスタイルを「テンセグリティー・ヨガ」と名付け、ボディーワークで学んだ知識を随所に入れて、自己安定能力を引き出しながら全身の気のバランスを調えるアプローチを開発中。2013年からテンセグリティー・ヨガの指導者養成講座を全国主要都市で開催。近年は陰ヨガの普及にも力を注ぐ。
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