日本トレーニング史⑩ 80年代、3強の時代




1970年代の日本ボディビル史に燦然と輝き、いまだに伝説の人物とされているのはボディビルダー・須藤孝三だ。須藤は第20代&22代ミスター日本になったが、あたかも古代ギリシャの彫刻から出てきたような神秘的な肉体美でNABBAの世界タイトルも2度(75年、77年)獲得している。

そして1980年代になると朝生照雄、石井直方、小山裕史の3強時代に突入した。

【ミスター日本】
1980年:第26代・朝生照雄
1981年:第27代・石井直方
【日本ボディビル選手権】(1982年からミスター日本は日本ボディビル選手権に改称)
1982年:第28代・小山裕史
1983年:第29代・石井直方
1984年:第30代・小山裕史
1985年:第31代・小沼敏雄
1986年:第32代・朝生照雄

まず1980年のミスター日本コンテストでチャンピオンになった朝生は身長165㎝しかなかったが、79年度ミスター日本の長宗五十夫のように広く発達している広背筋を武器に82年のアジアボディビルディング選手権85㎏級で優勝した。また86年にも日本チャンピオンに返り咲いた。

石井は81年のミスター日本獲得時は東京大学大学院博士課程3年だった。もちろん大学時代は東大ボディビル&ウエイトリフティング部をけん引して活躍し、個人でも全日本学生ボディビル選手権(77年)で優勝。全日本学生パワーリフティング選手権でも2連覇している逸材で、83年にはNABBAで3位を獲得した。

いまさら言うまでもないが、石井は医科学的視点にたったボディビルのメカニズム研究で、ボディビルダーに影響を与えてきた研究者であり、多くのスポーツ選手に対してもパフォーマンスを考えた筋肉トレーニング法を指導する第一人者だ。

小山は82年、84年と2度日本チャンピオンになっているが、83年にはIFBBの世界選手権に出場しライトヘビー級5位、83年~85年にはアジア選手権で優勝していて、有名スポーツ選手のコーチを手掛け、身体理論の研究家として知られている。

さて、日本ボディビル協会の小山が83年にIFBBの世界選手権に出場していることで首をかしげる読者もいることだろう。

日本ボディビル協会所属選手は協会分裂以降、NABBAの世界大会しか参加できなかったからだ。IFBBに参加できる選手は同協会から離れた関西ボディビル協会(分裂後、IFBBジャパンに改称)が取り仕切っていたのである。

ところが81年、ハワイのIFBBキャシイ・チャン代表から同協会に選手参加要請をしてきた。同協会とすれば断る理由などない。ハワイの大会に選手を派遣した。これがきっかけとなって、敵対していたIFBBジャパンと接近することになって、82年に再び統一。統一名は日本ボディビル連盟(JBBF)となり、玉利齊が会長就任し、IFBBに加盟することになった。

文・安田拡了