“美しい体操”を体現した日本体操界のミューズ
2010年の世界選手権では、もっとも美しい演技で観客を魅了した選手に贈られる「ロンジン・エレガンス賞を日本人女子として初めて受賞。2012年のロンドンオリンピックでは、キャプテンとして日本女子チームの2大会連続入賞(8位)に貢献するなど、こだわりの“美しい体操”で日本女子体操界に一時代を築いた田中理恵。だが、自著『田中理恵Smile』(ベースボール・マガジン社刊)によれば、その体操選手としての道のりは、決して順風満帆ではなかった。
彼女の最初にして最大の挫折は中学3年のとき。足首の故障による休養期間が、思春期特有の体形変化の時期に重なってしまったのだ。
「体操は、それこそ数センチ、数ミリ単位で技の正確さを競いあう繊細な競技。わずかな体型の変化がストレートに動きに反映します。特に私のように急激に体形が変化すると、すべてが狂い、今までラクにできていた技ができなくなってしまいます」(以下、同著より)
また、ほかの選手に比べて自分だけが女性らしい体つきになってしまったことも、コンプレックスになってしまったという。体操の名門、日本体育大学に進学後、コーチや仲間、そして家族の励ましで徐々に復調した田中は、2008年の北京オリンピックで日本女子が団体5位と躍進した姿に、激しく突き動かされる。
「テレビに映る彼女たちがとてもまぶしく見えたし、やっぱりこの舞台を目指したいと改めて思いました。そこで、次回大会から逆算して、毎年の目標を設定することにしました」
彼女の“4ヵ年計画”は以下の通り。
【2009年】ユニバーシアード(学生の世界選手権)に出場する
【2010年】初の日本代表入りを果たし、世界選手権に出場する
【2011年】世界選手権に連続出場し、団体の五輪出場権を獲得する
【2012年】ロンドン・オリンピックに出場する
この計画の最大の問題点は、スタート年齢が22歳、つまり目標を達成したときには25歳になっていること。体操やフィギュアなどの採点競技では、10代で選手としての旬を迎え、20歳そこそこで引退という例が少なくない。「25歳でオリンピック初出場」という目標は、無謀すぎるほど無謀な賭けといえる。
実際、田中は体操の基本を教わった父から、「オリンピック? どこからそんな自信が湧いてくるんだ?」と驚かれ、「お前はよくやった、もういいんじゃないか」と引退勧告さえされたという。それでも田中は、気持ちも体も中途半端なまま体操に臨んでいたこれまでの自分と決別し、「今度こそ、途中で逃げ出さない。絶対にあきらめない」の一念で、自己改革に着手した。苦手種目克服のための体力・脚力の強化、自分の体形を十二分に活かすための新たな技へのチャレンジ……。
生活も気持ちも一変させ、一つひとつ目標をクリアしていくなかで、彼女はこんな“気づき”を得るに至る。
「『人間、そんなに簡単に変われない』と、心のどこかで思っていたけれど、それは間違いでした。目指すべきものが見つかれば、人は必ず変われるんです」
2012年、25歳でオリンピックの檜舞台に立った田中理恵は、“遅咲きのヒロイン”として、また彼女自身がこだわる“美しい体操”の体現者として、日本五輪史にその名を刻んだ。
彼女が“4ヵ年計画”を立てた理由は、「いきなりオリンピックを目指そうとしても、目指す山が高すぎて途中であきらめてしまうかもしれない。でも、頑張ったら手の届きそうな目標を段階的に置いてひとつずつクリアしていけば、きっと頂上までたどりつけるはず」。
これは、トレーニングにおける目標設定の鉄則でもある。体脂肪30%オーバーの人が、いきなり8%を目指しても、心のどこかで「どうせ自分には無理」と逃げ場をつくってしまう。2年先、3年先にゴールを設定し、そこから逆算して小さな目標を置けば、あとはその道しるべに沿って粛々と進めばいい。大切なのは、「つねに目の前に、達成可能な目標を置き続ける」ということだ。
遅咲きのヒロインは、明確な目標設定と不断の努力で年齢の壁を鮮やかに超えた。目指すべきものが見つかれば、人は必ず変われる。それは競技スポーツやトレーニングにとどまらず、人生のすべての局面に通じる金言でもある。
参考:『田中理恵Smile』(ベースボール・マガジン社)
文/藤村幸代