日本トレーニング史④ 早稲田大学バーベルクラブの設立




早稲田大学バーベルクラブを設立したのは玉利齊(現・日本ボディビル・フィットネス連盟名誉会長)だった。玉利は1952年に早大政経学部に入学し、柔道部に在籍した。

この年の夏のことだった。玉利は柔道場の隣のレスリング場でスパーリングをしていたレスリング部OBがバーベルやダンベルを使って鏡の前で筋力トレーニングをしているのを見た。そのOBは惚れ惚れするほどの肉体をしていた。

玉利はOBに「先輩、重量挙げのトレーニングですか」ときくと「いや、これはボディビルディングという体づくりのスポーツなんだよ」と言う。玉利はさらにきいた。

「僕のように痩せている者でもできるんでしょうか」
「もちろんだよ。そういう人間こそボディビルディングをやってほしいんだ」
「先輩、僕にも教えてくれませんか」

このOBこそが平松俊男で、それ以後、玉利は平松について柔道の合間にボディビルディングのトレーニングに励んでいった。そのうち、レスリング部、空手部、体操部の学生が次々と平松のもとに集まってきた。みな、それぞれの分野で筋力をつけて成績を上げたいという連中たちだった。

いつしか15、16人くらいのグループになってきた。こうなってくると正式なクラブをつくらないと大学側からしても都合が悪い。仲間と話し合ってバーベルクラブという名称で出発することになった。翌1953年のことだ。

早大バーベルクラブの面々。中央の腕組みをしている人物が玉利。向かってその右が窪田

キャプテンは玉利。顧問には平松がなって、大学体育局の人見太郎氏が監督、理工学部の関根吉郎助教授が部長だ。そして、玉利の願いがかかって今度は窪田登がコーチとなって、同クラブは充実していく。学生も一気に200人以上に膨れ上がっていった。

バーベルクラブの方向性は設立当初からはっきりしていた。
①ボディビルをスポーツ競技として追求していく。
②いろいろなスポーツの向上のための補助的な運動の役割。
③一般学生のための健康体力づくり。

学生たちは各自が目的に沿ったトレーニングをしていった。

1955年になると力道山のプロレスが日本中を席巻して、力道山道場にも体を鍛える学生や社会人が押し寄せたものだった。それとともにバーベルクラブをマスコミが取り上げていくようになり、バーベルクラブの考え方や練習方法が世間に伝えられ、ボディビルディングブームの火付け役になっていった。

しかし、ブームになっていくとボディビルのジムがタケノコのように増えていき、それとともにボディビル批判も増えてきた。運動能力が下がるとか、心臓に負担だとかと批判する医者もいたし、また柔軟性やスピードを阻害するという体育の専門家も出てきたのだ。

これではせっかく誕生したボディビルディングの芽も積み上げられてしまう。玉利、人見、平松のバーベルクラブ幹部たちは、今こそボディビルディングの発展のためにしっかりした指導理念と技術を与える組織づくりをしなければならないと決心し、日本ボディビル協会設立にむけて奔走するのだった。

文・安田拡了