『ゾーンの入り方 超一流アスリートが教える結果を出すための集中法』(室伏広治著・集英社新書)
男子投てき競技ではアジア史上初のオリンピック金メダリストになり、世界陸上も制覇した室伏広治。ジャンルを超えて世界的に尊敬を集めるアスリートであり、スポーツ科学者としても研究を続ける室伏が、「集中力を極限まで高める方法」を伝授する。
ただの体験談でもなければメンタルの持ち方だけを語った本でもない。また、フィジカルトレーニングの方法だけを伝えるだけでもない。それらがすべてミックスされ、哲学さえも感じさせる。
室伏の著作には好著が多いが、これは多くの人に読まれるべき一冊だ。プロアスリートはもちろん、一般のスポーツ愛好家、そしてスポーツに縁がない人でもさまざまな読み方ができる。
“ゾーン”に明確な定義はないが、室伏はこう表現する。
「集中力が極限まで高まって、心技体が完全に調和して、ほとんど無意識な状態なのに最高のパフォーマンスが発揮できた。その状態をいわゆるゾーンというのだとすれば、私もゾーンの体験者だといえるでしょう」(第2章 ゾーンに入る)
では集中力とは何か、その答えの一つが「本気で全力を出しきること」であると室伏は言う。自分では本気でやっている、全力を出していると思っていても、それはほんとうの全力なのかと問いかける。ここまでは精神論としてよく使われる言い回しかもしれない。
しかし、室伏はシンプルな動きの例を示してこう伝える。
「人差し指で向こうを指差して、その指を全力で伸ばしてください」
そう言われたとき、本気で全力を出しきって飛ばせる人は決して多くはありません。本人は指を全力で伸ばしたつもりでも、実はまだ十分に伸びていないのです。指を全て伸ばしきるには、手や指の力だけでは足りません。(中略)
「一本の指を伸ばすためには全身の筋肉を総動員しなければできないのです、たった1本を全力で伸ばすためにも全身の力が必要なのです」(まえがき)
全力を用いなくても指一本伸ばせるのは当然だが、全力を総動員する方法もあると知り、それをやりきること。これは、いままでの自分の思考や運動のパターンを疑え、ということでもある。
また、これは身体を有効に使う運動理論とも言える。たとえば武術の達人がシンプルに拳を軽く突いただけで、相手におおきなダメージを与える技を見せることがある。
拳の一点に全身の力が集約された結果だというが、そうなるように身体の回路をつなげる練習をしているのだ。つまり、全身を使って指一本をのばすのに似たトレーニングなのだろう。こうした身体回路があれば、最小限の力で最大の効果につなげられる。
本気で全力出しきることを実践して初めて、集中力が身につき、今まで見えなかったことが見えるようになり、感じることができなかったことが感じられるようになって、完全に調和した「ゾーン」が現れる、と室伏は言う。
全力を出すというと、ひとつのことを脇目もふらずにやり続けるというイメージがあるが、その前にそこに楽しさを見つけられるかどうかが大切だ。
必死でやったとしても頭と身体が納得していないトレーニングは逆効果になる。反復練習は大切だが、やりすぎて悪循環に陥ることも多い。
ネイマールはサッカーの動作に関しては、脳の省エネ化をして高い技術をこなす。
車で省エネ運転をすれば走行距離が伸び、いろいろな場所に行けるようになるのと同じ理屈だ。
だから「練習は裏切らない」「努力は裏切らない」はウソであり、練習をやめて自分を客観視する勇気が必要だと、室伏は考えているのだ。
逆に夢中になれる楽しさがあれば、トレーニング自体に発見があり、それがさらに広がっていく。室伏は「トレーニングの発明家」でもある。
本書で紹介されている室伏流エクササイズのひとつに、「新聞紙エクササイズ」がある。
新聞紙1枚を片手で持ち、片手だけで小さく丸めていって、最後は手のひらに収まるまでに握りつぶしていく運動だ。この運動は、腕の筋肉を鍛える効果だけでなく、新聞紙の状態が変化していくのを感知しながら行うことで神経や感覚も磨ける。
「このプロセスが筋肉にも脳にもいいのです。しかも、毎回やるたびに違う動きになるので、刺激が鈍くなることはありません」(室伏流エクササイズ)
また、“バーベルの代わりに空気を使う”というトレーニングは、イメージと拮抗筋の働きを利用した器具いらずの実用的なもの。室伏流エクササイズには必ず、感覚とイメージが重要な要素として内在している。
さまざまな刺激によって、自分を更新して可能性を高めていく。工夫次第でその方法は無限にある、ということだろう。
日本人初となる100メートル9.98秒の記録を出した桐生祥秀が、室伏の指導を受けているのは有名だ。これからも多くのアスリートが室伏の門をたたくのではないかと思われる。
ところで、アスリートはさておき、我々一般人にとってのゾーンは? 前述したように、ゾーンは「現れる」もの。だから、まずは本気で全力を出し切るという体験を積み重ねることこそが、「入り方」である。
「その時に打ち込めるものがあれば、そこに集中できるし、集中力も鍛えられる。そこにゾーンがあるのです」(第2章 ゾーンに入る)
だから、ゾーンはアスリートに限られた世界ではない、ということである。
室伏には、『超える力』というもうひとつの代表的な著書があるが、こちらに関しても別の機会に触れてみたい。
文/押切伸一