オリンピックが楽しくなるコラム~日本のスポーツが強くなった理由①【佐久間編集長コラム「週刊VITUP!」第97回】




VITUP!読者の皆様、明けましておめでとうございます。明日から仕事はじめという方も多いと思いますが、今年もよろしくお願いいたします。

さて、いよいよ東京オリンピック・パラリンピックイヤーの幕開けです。「週刊VITUP!」では、読者の皆様がよりオリンピック・パラリンピックを楽しめるようなコラムを定期的に書いていけたらと思っています。

最初のテーマは日本のスポーツが強くなった理由!

昨年から少しずつ、オリンピック・パラリンピックの代表選手が決まり始めています。地元開催の大会ということもあり、今大会は過去最多のメダル獲得、金メダル獲得が予想されています。ここではオリンピックに限定して話をさせてもらうと、過去にメダルを量産してきた柔道やレスリング、体操、競泳といった有力競技をはじめ、近年の躍進が著しいバドミントンや卓球、新種目の空手、スポーツクライミング、サーフィン、スケートボードなどでもメダルラッシュが期待されています。とにかく現在の日本は各競技に有力選手がたくさんいるのです。

現在のように若く力を持った選手が各競技で飛躍してきた背景に迫るには、歴史をさかのぼる必要があります。4年前のリオデジャネイロ大会のときは、歴代最多となる41個のメダルを獲得(金メダル12個)。8年前のロンドン大会でも、時の歴代最多となる38個のメダルを獲得しています。ここ最近は好成績が続いていますが、90年代のバルセロナ、アトランタ大会ではともに金メダル3個と低迷(88年ソウルは4個、00年シドニーは5個)。日本選手の競技力低下は誰の目にも明らかでした。

日本がこの低迷期から脱することができた最大の理由は、ナショナルトレーニングセンター(NTC)設立による、強化体制の充実です。もともとトレセン構想は1964年の東京オリンピック当時からあったものの、戦後の復興真っただ中ということもあって、新幹線や高速道路などインフラ整備が重視され、見送られたという背景がありました。その東京大会では金メダル16個(総獲得数29個)と大きく躍進。その後の大会でも一定の結果は残していたため、なし崩し的にトレセン構想は保留されたままになってしまいました。

ところが前述したように92年のバルセロナ、96年のアトランタでは各競技とも惨敗。00年のシドニー大会も振るわず、現状を危惧した文部省(現・文部科学省)が00年9月に「スポーツ振興基本計画書」を策定。オリンピックでのメダル獲得率を3.5パーセントを目指すという目標を掲げ、競技別の強化拠点としてナショナルなレベルのトレーニング施設の設立が具体化しました。約50年の時を経て、ようやくトレセン構想が動き出しました。

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いざ、トレセン構想が動き出しても問題は山積みです。最初に問題となったのは建設場所。オリンピックは夏・冬合わせると40競技近くあり、全部に対応するには広大な土地が必要となります。当初は北海道や関東平野への建設も議論されましたが、先行して01年に建設された国立スポーツ科学センター(JISS)がポイントとなりました。ここに隣接してNTCをつくるべきという判断に至ったのです。

ご存知の通り、NTCやJISSは東京都の北区にあります。土地が限られており、まずは夏の屋内競技を優先することになりました。トレセン構想のきっかけがバルセロナ、アトランタの夏季オリンピック惨敗からスタートしているからです。当然、屋外競技の団体や冬季競技の団体からもJOCへの要望はありましたが、「まずは計画を動かすことが先決」という判断のもと、夏のインドア競技を中心としたトレーニングセンターを作ることになりました。

NTCは日本独自の発想でイチから作りあげられています。当初は先行する諸外国のトレセンを参考にするという案もあったものの、スポーツ強豪国は広大な敷地の中に体育館が点在するようなトレセンが多く、条件面の違いから施設の作り方を参考にすることはできなかったからです(資金調達法や運営法は諸外国を参考にしています)。

何か新しいことを始めるとき、「前例がない」という理由で必ず反対する人が出てきます。前例がないからつくるのです。とにかく一歩踏み出すことが大事なのです。JOCが何もわからず、何もないところから、NTC建設に向けて動きだしたことで、その後の未来が変わりました。

ではNTCはどんなことを意識してつくられ、どんな成果をあげたのか? このあたりは次回のコラムで紹介していきたいと思います。それではまた来週!

 

 

佐久間一彦(さくま・かずひこ)
1975年8月27日、神奈川県出身。学生時代はレスリング選手として活躍し、全日本大学選手権準優勝などの実績を残す。青山学院大学卒業後、ベースボール・マガジン社に入社。2007年~2010年まで「週刊プロレス」の編集長を務める。2010年にライトハウスに入社。スポーツジャーナリストとして数多くのプロスポーツ選手、オリンピアンの取材を手がける。