「使える筋肉」の作り方を広める伝道師 ①独立リーグ最多勝投手から専務へ




今やプロ野球への人材供給源として確固とした地位を築いている独立リーグ。2005年に最初の四国アイランドリーグ(現・四国アイランドリーグplus)が創設された当初に、「夢を叶える場であるとともに夢をあきらめる場」にチャレンジした第1期メンバーたちのほとんどは、フィールドを去り一般社会で活躍していることになる。現在トレーニング機器販売会社のホグレルに勤める相原雅也さんもそのひとりだ。相原さんは、独立リーグの設立を耳にし、脱サラをしてまでプロの夢に挑戦した元投手。2005年に高知ファイティングドッグスに入団。2年目の2006年には17勝を挙げ最多勝に輝いている。この記録はいまだリーグのシーズン最多勝記録として燦然と輝いている。しかし、それでも、プロには手が届かなかった。

「あの頃はまだまだリーグのレベルも低く、投高打低でしたから」と相原さんは謙遜するが、当時は十分にドラフトにかかるだけの実力はあっただろう。おそらくネックになったのは、当時26歳という年齢だったのではないか。相原さんは大卒後、地元銀行に採用され、3年間のサラリーマン生活ののち、独立リーグの世界に飛び込んだという異色の経歴の持ち主なのだ。

「チームでは浮いていましたね」と相原さんは、高校・大学時代を振り返る。高校は地元・茨城の県立高校。小学生の頃から野球はやっていたが、さほど上背もなく、目立った存在でもなかった。高校でも一応野球部には入ったものの、進んだのが進学校ということもあり、部活はあくまで高校生活を楽しむための一環でしかなかった。

そんなのどかな野球部に新監督として同じ県立の竜ケ崎一高を甲子園に導いた監督が赴任してきて相原さんの野球に取り組む姿勢が代わった。コントロールがいいからと投手に抜擢された相原さんだったが、翌年になると甲子園を目指したいと有望な下級生が入ってきて次々とポジションを奪っていった。それでも、相原さんは、レベルアップするチームにあって、のどかに野球を楽しむ同級生を尻目に次第により高いレベルでプレーしたいという望みをもつようになり、監督のつてを頼ってトレーナーの門を叩きもした。

とはいえ、120キロ台の平凡な球速ではドラフトなど遠すぎる夢でしかなかった。大学は隣県の中央学院大学に進学するも、はじめは野球もするつもりがなく、スポーツに力を入れている学校ということもあり、全国トップレベルの硬式野球部ではやっていく自信がなかったので、入部もしなかった。結局、軟式野球部でプレーすることにしたのだが、どちらかというと余暇活動的な雰囲気の強いチームの中、生来の真面目さなのだろう。ユニフォームに一旦袖を通せばのめりこんでしまい、高校時代同様パーソナルトレーナーの指導を受けるなどトレーニングに没頭していった。大学卒業後銀行員になり、軟式のクラブチームに入ってからも、ピッチングへのあくなき追求心は変わることがなかった。「草野球」とはいえ、チームは全国大会にも出る強豪。相原さんのプロ入りへひそかな思いは消えることなく、プロ球団に履歴書を送ったりもしていた。

そんな相原さんの運命を変えたのが独立リーグの出現だった。2004年秋、四国に日本初の独立リーグが発足するという記事を目にして、相原さんの心は決まった。

「当時入行3年目でしたから。なかなか野球との両立も難しくなってきていたんです。独立リーグのテストを受けて、ダメならもうきっぱり野球は辞めよう、そう思って受験しました」

東京の大学で行なわれたトライアウトには500人弱が集まっていた。参加者は、半ば冷やかしのような記念受験組もいれば、トップレベルでのプレー経験のある者まで様々だったが、長年のトレーニングの結果、球速の増した相原さんのストレートはリーグ発起人の西武ライオンズ黄金時代の名ショート、石毛宏典の目に留まり、晴れて2次テスト免除の「特別合格」となった。

「実はあまりの受験者の多さに、リーグ当局は各地での1次テストの後、平日に福岡で2次テストを行なうことになったんです。東京でのトライアウトは日曜だったので参加したんですが、2次はキャンセルするつもりでした。年休を取っての参加はかなりの覚悟がいりましたから。ダメだった時のことを考えると、難しかったですね」

現役時代の相原さん

独立リーグは一応プロを名乗っているので、給料は出る。しかし、銀行員時代とは比べものにはならない。アパートを借りて食費を払えばあとは残らないといった感じだ。当然野球に打ち込むことになるのだが、そういう環境の中、相原さんはめきめきと頭角を現し、球速は140キロ中盤に達するようになった。チームからは、現在もロッテの主力として活躍する角中勝也がドラフト指名されて巣立っていったが、その姿を見届けると、相原さんは独立リーグを去った。

それでも、独立リーグ最多勝の実力を社会人野球が放ってはおかなかった。地元関東の複合企業チーム、かずさマジックに入団することになった。ここで支援企業のひとつである新日鉄の関連会社の社員として2年間プレーするが、チームの若返り策から「肩叩き」にあう。この時28歳の相原さんは「上がる(引退する)」ことを決めたのだが、相原さんの才を惜しんだ勤務先の社長の言葉がここでも相原さんを動かす。

「まだ体は動くのだから、身の振り方は自分で考えなさい。どこかにいいチームがあるなら移ってもいいし、ここで働くならそれでもいい」

しかし、相原さんはここで引退の決断をする。ただしサラリーマン生活に完全に戻るのではなく、指導者を目指すことにした。働きながら、退勤後は勉強し、教員の口を探した。そして2011年3月、福島県のある私立高校から非常勤講師としての採用内定をもらったが、そのタイミングであの震災が起こる。内定先からは、「採用はするが学校自体がいつ始まるかわからない」と言われ、ここで高校野球の指導者としての夢も潰えてしまう。

「結局、私は教員になりたいのではなく野球の指導者になりたかったんです。そう考えると、いつ始まるわからない学校の非常勤講師にこだわる選択はなかったですね」

そんな時、夢に出てきたのが、トレーニングで使っていたマシンだった。

「学生時代からお世話になっていたトレーナーの方から、独立リーグ時代に勧められたんです。それでオフシーズンに使わせていただいて、社会人野球時代も引き続き使っていたんですけど、これで球速がアップしたんです。マシンを使ったトレーニングって言えば、筋肉ムキムキのイメージがありますが、そのマシンのコンセプトは、まずはもっている筋肉を100%活かしましょうということなんです。ほとんど人はもっている力の2、3割しか使えていませんから。それを柔軟にすることによって、最大限活かすためのトレーニングなんです」

野球プレーするための体の使い方のスキルを伝える、それを仕事にしようと考えた相原さんは、そのマシンを手掛ける会社の門を叩いた。いきなり電話をしてきて履歴をもって押しかけて来た男に社長は戸惑ったが、その熱意にほだされ、アルバイトでの採用を決めた。時給850円。「転職するたびに下がってました」と笑う相原さんだが、その働きぶりが認められ、3か月で正社員に昇格した。そして、相原さんは自らの競技経験と野球を通じて培った人脈を生かして、自分の競技生活を支えてくれた「ホグレルマシン」の伝道師として日本中を飛び回っている。

久しぶりに会って差し出された名刺には、「取締役専務」とあった。

 

つづく

 

取材・文/阿佐智