世界をまたにかけた野球人が主宰する野球塾①




藤本博史さんは元プロ野球選手で、現役時代はオリックス・ブルーウェーブ(当時)をはじめ、台湾やアメリカでもプレーした経験を持つ。世界を股にかけて野球に触れてきた彼が主宰する野球塾では、子どもたちにどんな指導をしているのか? その取り組みを紹介していく。まずは藤本さんの野球人として歩みを振り返る。

野球で学んだことを伝えたい

 

「『ピエンサ』って言うのは、『考える』『思う』という意味のスペイン語なんです。同僚のドミニカ人がよく口にしていました。」

 

藤本博史さんは、自ら主宰する野球塾、ピエンサ・ベースボール・アカデミーのネーミングの由来についてこう語る。看板のロゴやホームページや場内のところどころにあるかわいらしいキャラクターは、外注ではなく、すべて藤本さん本人によるものだ。

 

「こう見えても、僕、美術は5だったんですよ」と藤本さんは笑う。

 

藤本さんは、元プロ野球選手だ。オリックス・ブルーウェーブや台湾、アメリカでプレーした。高校時代は、小田幸平(元巨人・中日)らと並んで地元兵庫屈指の捕手としてその名をとどろかせた。

 

アカデミーの中には、現役時代を思わせるものはなにもない。野球塾を開く元プロ野球選手の多くが、ユニフォームなどを飾っているのとは対照的だ。

 

「一応、実家には現役時代プレーしたユニフォームなんかはあるはずですよ。でも、取り出して見たことはないですね。あんまり過去のことは覚えてないんですよ。常に前へ前へ、という性格なので」

 

現役時代の思い出と言えば、むしろ社会人野球時代のキューバ戦だ。1997年、全兵庫のメンバーとして当時アマチュアの雄と呼ばれ、メジャーリーグにも匹敵するメンバーを揃えた最強軍団相手にかぶったマスクは印象に残っていると言う。

 

「キューバも凄かったんですけど、谷中真二(のち西武・阪神など)さんが抑えたんですよ。試合には負けましたけど、谷中さん、凄いなってリードしていて思いました」

 

高卒で社会人野球入りした藤本さんだったが、不況のあおりでチームが休部となり、新天地をアメリカに求めた。単身渡米して受験したシアトル・マリナーズのトライアウトをきっかけとして、本場の独立リーグでプレーするチャンスを得たのだ。ここで2シーズンプレーし、卓越したプレーが現地スカウトの目に留まり、それが縁でオリックスの秋季キャンプにテスト参加する機会を得た藤本さんは、2001年ドラフトで指名され、ブルーウェーブのユニフォームに袖を通すことになる。

 

オリックスでは2シーズンプレー。その後もアメリカの独立リーグや台湾プロ野球で現役を続けた。そこで出会った言葉が「ピエンサ」だった。

 

「向こうではドミニカ人と一緒にいることが多かったんですけど、彼ら、すごくハングリーなんですよね。故郷の家族の生活を支えるためにプレーしている選手が多かったです。その彼らが、いつも口にしていた言葉が『ピエンサ』なんですよ。」

 

ただ何となくプレーするのではなく、「考えて」プレーする。それは、人生も同じことなのだろう。様々な国でプレーしてきた藤本さん自身、そこで生き残るために常にフィールドで考え、そして様々なことを思ってきた。

 

藤本さんは、2007年シーズンを台湾の中信ホエールズで送った後、2008年からは国内の独立リーグでプレー。2009年にはこの年発足した関西独立リーグの明石レッドソルジャーズに移籍し、2010年のシーズン途中からは監督も務めた。しかし、このシーズン限りでチームは解散。藤本さんはユニフォームを背広に着替えた。野球界で培ったスキルを実社会でも生かそうと仕事に取り組んだが、野球を忘れることはできなかった。一般社会での経験を今度は野球界に還元すべく、藤本さんは起業を決意する。野球を通じて学んだことは、絶対に社会に出ても役に立つはず。そういう思いを子どもたちに伝えたくて、2013年に開設したのがピエンサ・ベースボール・アカデミーだ。

明石レッドソルジャーズ時代の藤本さん

 

高校時代を過ごし、現役生活を終えた明石の地に野球塾を構えた。野球教室を通じて入門してきた1人から始めたアカデミーも、次第に生徒数が増え、現在では専従スタッフも3人抱えるまでに成長した。そのスタッフとともに、藤本さんは今、日々後進の育成に取り組んでいる。

 

取材&文・阿佐智

 

ピエンサベースボールアカデミー