破天荒な言動とファイトスタイルで一時代を築いたミノワマンが、100㎏の大台を目指し大幅な肉体改造を行なっている。階級別、減量が主流の格闘技界にあって、なぜ時代に逆行するかのような試みに着手したのか。本格的にプロレスラーを目指し始めた、高校時代以降の“美濃輪育久”を振り返る。
「食事量を増やしても体重は60㎏ちょっと」
——柔道を始めたのは高校生になってからですか。
「プロレスラーになるために何か格闘技をやったほうがいいと思って、中学3年の夏から始めました。夏くらいで部活動が一旦終わるじゃないですか。僕はそこからサッカーではなく柔道部で練習させてもらったり、柔道の町道場で練習をしていました。その流れで高校では柔道部に入部して、プロレスのためだけに柔道を続けました」
――当時は入門テストを受けるのにも厳しい規定がありました。
「当時はたしか185cm、90kgが最低ライン。団体によっては85kgというものもありましたけど、自分は60kg以下でしたし身長も170cmありませんでした。最低でも180cmは必要だろうと思って、牛乳をひたすら飲んだり頭を叩いたり逆立ちをしたり、背が伸びそうなことは何でもやりました。体重に関しても増やし方がまったくわからなかったので、とりあえず米をいっぱい食べました。今思えばもう少し肉や魚を食べればよかったんですけど、当時は知識もないのでむちゃくちゃでしたね」
――食事量を増やしてから、体に変化は見られましたか。
「多少は変わりましたけど身長は伸びないですし、体重も60kgちょっとしかなかったので柔道は軽量級でした。それでもとりあえず食べるしかないということで食べ続けて、ヒンズースクワットと腕立て伏せもひたすらやっていました」
――やめようと思ったことはなかったですか。
「友達から馬鹿にされたり、高校生になってからも三者面談とかで先生に笑われ続けました。正直、やめようと思ったことは何回もありますけど、『これしかない。絶対になるしかない』と、氣持ちを奮い立たせていました」
――その原動力は何だったのでしょうか。
「他のことをやるのが怖かったですね。プロレスラーになることを前提に中学から新聞配達を始めて、そこからアルバイトは引っ越し、コンビニ、ブラウン管を検査する工場、掃除、ガス会社、ハンバーグを焼いたり……と何でもやりました。専門学校時代も含めていろいろやりましたけど、そのどれもがしっくりこなかったんです」