後輩が入ってきて初めてちゃんこが美味しいと思えた
——海外遠征以降は、藤波選手は器具を使ってと言うよりも自重トレーニングが中心ですよね。
「そうですね。とくにカール・ゴッチさんのもとで練習をしていた時は、体操の選手かと思うくらい鉄棒とか吊り輪を使ってボディウエイトを使って体幹を鍛える運動ばかりでした。マシンを使った運動なんて、させてくれなかったです」
——そもそも入門時の体重は60㎏台だったと記憶しています。
「62~63㎏ですね。当時の入門規定は175㎝以上の80㎏オーバーだったのかな。全体的に選手の体が小柄になってきているとはいえ、今でも入門は許してもらえない体格ですよね」
——同郷の北沢幹之さんが橋渡しする形で、1970年6月になんとか日本プロレスに入門。緊張から食事もノドを通らない状況が続いたようですが、デビューは意外にも早く翌年の5月9日なんですよね。
「もうそれすらも覚えていないくらい毎日が必死でしたけど、デビューする時も80㎏にすら到達していなかったです。僕はアメリカから帰ってきた時も90㎏なかったですから。90㎏超えたのは結婚するのと同時くらい。そこから100㎏までは早かったですけどね」
——当時は先輩レスラーが監視する中で、どんぶり飯を無理やり食べさせられたという逸話もよく聞きます。
「大きな声ではあまり言えないですけど、巡業中には先輩レスラーから酒も飲まされましたよね。あと食べ物も目の前にたくさんあるんですけど、まわりが先輩ばかりなので、なかなか喉を通らなかったです。今考えたらよくデビューできましたよね。運動自体は好きでしたし、プロレスとはこういうものだという感じで厳しい練習にも耐えられたんですけど、体は一向に大きくなりませんでした」
——その後、少しずつ後輩ができ始めたことで多少、変化も出てきましたか。
「それはありますね。日本プロレスの時は本当のペーペーで、猪木さんのカバン持ちをまわりに気をつかいながらやっていました。それが新日本になって、野毛の道場に少しずつ藤原(喜明)とか入ってきてくれました。下ができることで少し気持ちの余裕が出てきたんでしょうね。練習後のちゃんこが美味しいと感じたのは、その時が初めてですよ。日本プロレスの時は本当にいい食材をつかっていたけど、もう味すらわかりませんでした」
——1975年からは長期の海外遠征も経験されました。
「普通はみんな海外に行ったら大きくなって帰ってくるんですけど、僕の場合は一切脂肪がないような体で帰ってきました(苦笑)。ヨーロッパの西ドイツとかいろいろと回ってメキシコ、フロリダなどで2年8ヵ月。フロリダではゴッチさんとのマンツーマンで寝泊りしながらの練習だから、なおさら太れなかったですよ。ただ日本の時と違って科学的なトレーニングでしたし、競技的なイロハもそこで初めて習得させてもらいました」
——技術だけではなく、体づくりの面でも科学的なトレーニングだったのですか。
「そう。格闘技というのはまずコンディションありき。いくら技術があってもコンディションがよくなければ勝てないというのがゴッチさんの教えでしたから。コンディションが第一で、その次に頭を使ってどうやったら勝てるかというのを考える。そして最後に力。ゴッチさんは、そういう教えでした」