心身ともに限界……一度はテニスから離れる
世界女子テニスツアーは、WTA(Woman’s tennis association)という組織によって管理、運営されている。四大大会と呼ばれるグランドスラム(全豪オープン、全仏オープン、ウィンブルドン、全米オープン)が最高峰で、その下にWTAプレミアが年19大会、WTAインターナショナルが年29大会開催されている。ポイントがないと上位の大会に出場することはできないため、プロ選手といえども最初はさらに下のITFサーキットに出場し、ポイントを獲得して上位の大会にチャレンジしていくことになる。14歳にしてプロとなった西村は、ITFサーキットに出場するため世界を転戦していった。「遠征に行ったら行きっぱなしなので、ほとんど学校には行けませんでした。だからクラスにもなかなか馴染めなくて浮いていたと思います。注目されるようになって学校にテレビ取材が来たりしたのですが、友達と馴染んでいないので絵作りをしてもらって撮影をしていました。この頃はプロになった嬉しさよりも違和感ばかりでしたね」
それでも西村は2012年にITFトルコ大会にてダブルスで優勝を飾り、2014年にはシングルスで準優勝やベスト4という結果を残し、2015年はインドネシアの10,000ドル大会のシングルスで優勝も飾った。
必死にプレーをして成績を残す一方で、父親のスパルタはさらにエスカレートしていく。西村と衝突するだけでなく、コーチやスポンサー、練習パートナーと父親の関係も悪化。その結果、彼女の活動の場を狭めることになってしまった。
「プロになってから日清紡さんがスポンサーに付いてくれたのですが、海外遠征が多いのでそれだけでは足りなくて、親が多額のお金を出していました。だから早く上の大会に出られるようにならないといけないというプレッシャーがすごかったです。もともとお父さんはテニスをやったことがなくて素人なので、ツアーを回っている側の気持ちはわからない。それで衝突することが多くなっていきました。コーチをつけてもお父さんと方針の違いで揉めてしまったり、練習相手もお父さんと揉めていなくなってしまったり、日清紡さんはスポンサーを継続してくれると言ってくれたのですが、私の気持ちがバーンアウトしてしまってもう辞めざるを得なかったんです」
幼い頃からスパルタで育ってきた西村は、楽しかったはずのテニスによって苦しめられるようになっていた。胃潰瘍で入院したり、円形脱毛症になったり、心身ともにもはや限界。テニスから離れることを決め、父親とも完全に決別してしまった。
4歳からテニスにすべてをかけてきた。それだけ本気で打ち込んできたからこそ、数々の大会で優勝し、史上最年少でプロにもなることができた。その一方で犠牲にしてきたものも多い。遠征、遠征の繰り返しで普通の学校生活を送ることもできず、10代の子たちが当たり前のように経験するデートやアルバイトもできない。常に勝つことが義務づけられ、勝つための日々を過ごし、「大好きだったテニス」は、いつしか「怒られるための辛いテニス」になってしまった。そんな生活から離れてみると、目の前に広がる世界がまったく違って見えてきた。
「成人式の翌日に荷物をまとめて家から追い出されました。それからはおばあちゃんの家に住んでいて、お父さんとは一度も会っていません。小さい頃からテニスしかやってこなかったので、免許をとったり、アルバイトをしたり、いろいろやりたかったことを全部やろうと思いました。一日に13時間以上働いても一切苦痛ではなくて、すごく楽しかったんです」
心身ともにボロボロになった西村にとって、ごく普通の日常は天国のようだった。テニスのことを考えず、プレッシャーに怯えることもない。穏やかな日々を過ごすなかで、アルバイトをしていたレストランで知り合った男性と結婚。そして子供を授かり、家族3人での新しい生活が始まった。心の平穏を取り戻すと、一度は封印したはずの思いがふつふつと湧いてきた。
「またテニスをしたい」
「生まれてきた息子に活躍する姿を見せたい」
夫からの後押しもあり、西村は再びラケットを手にし、コートに戻る決意を固めた。止まっていた時間が、2年の時を経て動き出そうとしていた。
1996年1月24日、大阪府出身。幼少時からテニスを始め、2010年にジュニア世界一を決める大会「Petits As」で優勝しアジア人初のJr.世界一になり、同年4月22日 史上最年少(14歳3ヶ月)にて日本テニス協会認定プロ選手となった。
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