プロレス解説者の柴田惣一さんが、実体験をもとに数々のエピソードを紹介していく連載「柴田惣一のよもやま話」。前回に引き続き、この季節ならではの「花粉症」についての話をお届けする。
今も昔も花粉症と闘っている者は多い。鍛え上げた肉体と力自慢のプロレスラーも花粉症には叶わない。
試合数が現在よりも多かった昭和の時代には、気候がだんだんよくなる春先から初夏にかけて、大会が目白押しだった。屋外特設リング大会も多かった。地方サーキットに出れば自然に恵まれ、花粉を吸い込む機会も増える。
症状を緩和する薬などもあまりなく、ただただ耐えるのみ。花粉症が認知されていないのだから、クシャミでもしようものなら「何だ。風邪か。情けない奴だ」などと叱られてしまう。となれば、クシャミが出そうになってもグッと堪えて飲み込むしかない。目がかゆくてもこすれない。「何だ。眠いのか。たるんでいるぞ」と怒られてしまうからだ。
クシャミと目のかゆみは、それでも何とか耐えられる。だが、鼻水を我慢するのは至難の業だ。試合中に鼻がたれて来ても鼻をかめない。第一、格好悪い。苦肉の策で、こっそりティッシュを小さくまるめて鼻の奥に詰め、試合をする選手もいた。だが夢中で闘っているうちに、気がついたら抜け落ちていることもしばしば。
試合後、マットの上に丸くて小さな白い謎のブツが2つ、ちょこんと鎮座している謎の光景を、何度も目撃した。最初は何だかわからなかったが、自分が花粉症になると合点がいった。
今では効果的な治療法もたくさんあるので、謎のブツがリングに残されることはない。もはや見られなくなったリング上の不思議な光景……。花粉症の季節が来る度に思い出してしまう。
そして「メキシコでは何でもないのに、日本に帰ってくるとおかしくなるんだよ」と頭を抱えていたのがグラン浜田だった。2025年に74歳で、第二の故郷メキシコで亡くなったレジェンドの勇姿を覚えている方もいるだろう。
1972年に新日本プロレスでデビューし、メキシコに海外修行に出かけ大活躍。日本に凱旋するたびにぼやいていた。167センチと小柄で、当初のリングネームは「リトル浜田」だった。第一次UWF、全日本、ユニバーサル、みちのくなど多くの団体で華麗なマリポーサ(スペイン語で蝶)殺法を披露している。
メキシコマットで名をあげ、70年代から90年代半ばまで、日本とメキシコを往復していた。現地で犯罪被害に合った女性が全裸で逃げて来たのを助け「二次被害に合うケースが多いのに彼はグラン(偉大)だ」と称賛された。それがリングネームの由来になったという話もある。
メキシコマットと日本プロレス界の架け橋となった浜田も、花粉症には大苦戦だった。メキシコの花粉症事情が気になるところだ。(敬称略)

