1966年(昭和41年)は日本のボディビル業界が飛躍した年だった。一つはインドネシアのスカルノ大統領が中国の周恩来首相と組み、オリンピックに対抗して開催したアジアアフリカ新興国スポーツ競技大会「ガネホ」に選手を送り込んだことだ。IOCはこの大会を認めず、日本の体育協会傘下のスポーツ競技は、日本人選手を「ガネホ」に送ることができなくなった。しかし、日本ボディビル協会は日本体育協会に所属していない。「ガネホ」日本選手団の頭山立国団長から参加を求められた同協会玉利齊理事長は迷うことなく参加を決断。前年度のミスター日本・多和昭之進を送り込んだのだ。IOCの権力なにするものぞという反骨精神と言うべきものだろう。
そして、もう一つ。この年、関西の全日本ディビル協会と関東の日本ボディビル協会が全国組織として統一されたのだ。名称は「日本ボディビル協会」とされ、統一新組織の会長は八田一朗参議院議員、理事長には玉利齊が就任した。旧全日本ボディビル協会にはIFBB(インターナショナルボディビルダーズ)主催のミスター・ユニバースに出場してショートマンクラスで準優勝している小笹和俊(福岡県)がいて、統一後の活躍が期待されていた。ちなみに前号で記載した第十二回ミスター日本コンテストは旧日本ボディビル協会最後のコンテストである。
1967年(昭和42年)。統一後の日本ボディビル協会主催の第十三回ミスター日本コンテストが東京・神田共立講堂で開催され、やはり期待された小笹和俊(26)がミスター日本を獲得した。小笹の肉体は162cm、65kgという小さなものだったが、素晴らしいカットを見せつけ、他の選手を圧倒した。のちに玉利理事長が「小笹選手の肉体はそりゃ見事なもんでしたよ。当時は体脂肪率を計測できなかったが、脂肪はほとんどなかったよ。どうして、あんなにカットが凄いんだと話題になったくらい」と絶賛しているが、それほど日本人離れした肉体を見せつけて、観衆を驚かせたのだった。
それとともに日本ボディビル協会は国際大会にも視点を移しはじめ、1968年にはIFBBのミスター・ユニバースコンテスト、NABBA(ナショナル・アマチュア・ボディビル・アソシエーション)に日本代表選手を送り込んだ。1970年の第十六回ミスター日本に輝いた武本蒼岳は163cmという小柄だったが1971年にIFBBのコンテストで「ミスターレッグ賞」を受賞している。また1972年、第十七回ミスター日本・末光健一は、IFBBのミスターユニバースコンテストのショートマンクラスで見事優勝した。
まさに順風満帆、と言いたいところだが世の中というのはなかなか簡単にはいかないものだ。この国際大会の扱いをめぐって、再び日本ボディビル協会が分裂することになったのである。
もともと旧全日本ボディビル協会はIFBBとのパイプが強く、統一されても、その窓口は日本ボディビル協会が行わず、旧全日本側が行っていた。しかし、協会とすれば、組織の運営を考えて窓口は協会で行うべきだという考えを持っていた。そこで旧全日本側にこれを連絡すると、なんと反発され、それがきっかけで仲たがいになってしまったというわけだ。
この分裂によって、旧全日本はIFBBジャパンとして代表選手をIFBBに送り込むようになった。対して日本ボディビル協会はイギリスのNABBAのみに代表選手を送ることになっていく。と同時に日本ボディビル協会傘下にあったいくつかのジムも脱退し、IFBBジャパンに移ることになっていった(東京のボディビル協会は遠藤光男ジムをはじめ、約半数が脱退)。というのは有望な選手はIFBBに出場して入賞することがステータスであったからだ。
文/安田拡了