高校時代の恩師の言葉が女子マラソン金メダルの原点
日本女子陸上界初のオリンピック金メダルに導いた精神。高校時代の陸上部の恩師、中澤正仁監督からの言葉を胸に高橋尚子は結果が出ないときも走り続けた。
「何も咲かない寒い日は下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」(元三洋電機副社長、後藤清一氏著書『リーダーズノート』より)
高橋尚子の愛称、“Qちゃん”フィーバーに沸いた2000年。シドニーオリンピック女子マラソンのレースで多くの人の記憶に刻まれているのは34km付近のシーンだろう。シドニーまで応援に駆け付けた沿道の家族を確認すると高橋はサングラスをサッと放り投げた。それが合図のようにここから一気にラストスパートをかけ、ルーマニアのリディア・シモンを振り切り笑顔でゴール。2時間23分14秒のオリンピックレコードを叩き出し、日本女子陸上界に史上初となるオリンピック金メダルをもたらした。真夏のフルマラソンは最も過酷な競技ともいわれるが、高橋はレース前に「あとたった42.195km」と言っている。そしてレース後には「短く、楽しい42.195kmでした!」と愛嬌のある笑顔を爆発させた。
高橋の練習量はマラソン選手の中でも群を抜いていることで有名だ。1本のマラソンを走る前に40kmを15本、30kmを35本程度走り、追い込み期は酸素の薄い3500mの高地で月間1200km以上走り込む。オリンピックで金メダルを獲るという強い思いで、これだけの距離を走ってきたからこそ「たったの42.195km」と言い切れたのだろう。高橋はシドニーオリンピックの翌年にはベルリンマラソンで2時間19分46秒の世界記録を塗り替えた。圧倒的な練習量から湧き起こる自信が大記録を生み出している。
28才でオリンピック金メダルを獲得し、世界のトップランナーにまでに成長したが、もちろん調子の良いときばかりではなかった。岐阜商業高校時代まで遡ると、全国都道府県対抗女子駅伝の岐阜県代表に選ばれるのがやっとの選手で、全国大会の本番では9人に抜かれ、区間順位は全国で下から3番目の45位だった。
そんな高橋の原動力になったのが、高校時代の陸上部監督、中澤正仁から送られた言葉だった。「何も咲かない寒い日は下へ下への根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」。これは元三洋電機副社長、後藤清一氏の言葉で著書の『リーダーズノート』にも収められている名言だが、山梨学院大学の2期生として箱根駅伝を2度走った中澤自身も大学時代に上田誠仁監督からこの言葉を送られ、心の支えにしてきた。長距離ランナーの苦しみや喜びを知っている者たちが駅伝のたすきのごとく、この名言を教え子たちに語り継いでいる。高橋はテレビ番組やインタビューで座右の銘を聞かれると、必ずこの言葉を返している。社会人になってからマラソンに転向し、3年間は芽が出なかったがこの言葉を胸に1歩1歩走り続けてきたのだった。
オリンピック金メダルを手にした高橋はその後も連覇を目指し練習を重ねたが、2004年のアテネオリンピックの代表選考で落選してしまいスタートラインに立つことさえもできなかった。それでも心の炎は消えることなく、なおもアメリカで走り込んだが、練習中の転倒による怪我などから右足首を骨折してしまう。ようやく足首が完治すると今度は肉離れをくり返し、関係者はレースを休むことを薦めたがそれでも高橋は走り続けた。何も咲かない寒い日は下へ下へと根を伸ばし、大きな花を咲かせるために。度重なる怪我で高橋尚子の時代は終わったともささやかれたが、強行出場した復帰戦の2005年東京国際女子マラソンでは、オリンピックのときのようなラストスパートをかけ、見事に復活優勝を成し遂げた。
高橋のマラソン人生を振り返ってみてもわかるように、最初から花が咲くことも、花が絶えず咲き続けることも難しい。陽の光を浴び、水を吸収ししっかり根を張り成長してこそ、大きな美しい花が咲くのだ。マラソンや筋トレのように常に数字がつきまとうと結果が出ないと焦ったり、諦めたりしなくなりがちだが、苦しいときに踏ん張るからこそ、根が伸びるのだ。根を伸ばすことをやめなければ、やがて大きな花が咲くだろう。
文/山口愛愛