「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と謳われる柔道家、木村政彦。史上最強の柔道家と評される木村を作り上げたのは、「三倍努力」の信念から来る、尋常ならざる練習量である。
「相手が倍の努力をするなら、こちらは三倍、九時間訓練しよう」
(木村政彦、1985年、『わが柔道』、ベースボール・マガジン社、44ページ)
「史上最高の選手はだれか?」という問いは、どの競技でもなされる夢のあるテーマだ。実際には、ルールや技術の変遷などがあり、比較は困難である。だが、柔道における史上最強説は、ほぼ木村政彦ということで落ち着いている。かつて、日本の柔道界には、古流柔術諸派が結集した「武徳会」という、講道館とは別の組織が存在した。また、旧制高等学校と旧制専門学校を中心に発展し、寝技の技術改良を推し進めた「高専柔道」も盛んに行われていた。だが、第二次世界大戦を挟み、それらの技術の継承は阻害され、講道館は寝技と危険な種類の立ち技を制限していった。とりわけ寝技においては、木村政彦の時代の柔道家の方が上であるという説に、誇張はない。全日本選手権の覇者や五輪メダリストなども、40代、50代の木村との稽古において、まるで子供扱いされていた。
現在の柔道家の方が、フィジカル面では上と思われる。だが、木村政彦は異なる。仰向けで頭上に伸ばした両手にバーベルを持ち、肘を曲げずに挙上するストレートアームプルオーバーで、木村は90kgを挙げていた。その他にも、枚挙に暇がないが、木村の桁外れの怪力について、数多くの証言が残されている(増田俊也、2011、『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』、新潮社)。
後に天下無双の柔道家となる木村だが、若き日には苦しい試合も経験している。1937年10月、20歳の日に臨んだ全日本戦士権(全日本柔道選手権の前身)、「満州の虎」中島正行との決勝戦は、延長を繰り返し、約40分に及ぶ激闘となった。勝利したものの、木村は自身の実力を疑い、悩んだ。10日間悩み続け、1つの結論に辿り着く。それが「三倍の努力」である。「相手が倍の努力をするなら、こちらは三倍、九時間訓練しよう」と。こうして、「鬼の柔道」が完成する。
日本選手権3連覇、1940年の天覧試合優勝、戦争の影響により一時柔道から離れるも、復帰して出場した1949年の全日本選手権で優勝。更には、1951年、ブラジルに渡航、グレイシー柔術の創始者エリオ・グレイシーと柔術ルールで対戦、後に総合格闘技界で“Kimura”と呼ばれることになる得意技「腕緘」で、文字通り腕を折って圧勝する。余談だが、同姓の木村である筆者は、外国人から、「お前は、あの偉大な格闘家Kimuraと何か関係があるのか?」と真顔で問われたことがある。「三倍努力」の人、木村政彦とは、それほどまでに偉大な柔道家なのである。
トレーニングは効率よく行いたい。だが、一見非効率と思われるような、ひたすら限界に挑戦するトレーニングも重要だ。科学的であることと、限界に挑むことは、決して矛盾しない。それどころか、科学的な効果を得るほどに追い込めていないことの方が、多いだろう。時間に追われているのなら、集中力を高めよう。量でも密度でもいい、「三倍努力」で、求めるものを手に入れよう。
文/木村卓二