近年の成績もさることながら、60歳を超えても尚、進化を続けている蜂須先生。そこでボディビルやパワーリフティングをはじめた経緯と、現在のトレーニングや食事の内容について、2回に分けてお送りしたい。
40歳を過ぎて本格的にトレーニングを開始
――トレーニングをはじめた経緯を教えてください。
ウエイトトレーニングを本格的に始めたのは40歳くらいのときからです。はじめた理由ですが、薬理学では全力で研究にあたってきたのですが、ある時「自分はこのまま研究だけしていていいのだろうか…」そう思ったのがウエイトトレーニングをはじめたきっかけになります。そんな葛藤を持ちはじめたときに思い出したんです。子どもの頃に「カッコいい身体になりたい」と思ったことを。
――子どもの頃に影響を受けたのですね。
小学生の頃にプロレスが好きだったんですよ。特に外国人レスラーの中にカッコいい体をしたレスラーがいましてね。それが印象に残っていて。そして中学生になった頃にたまたま小林省三さん(後にプロレスラーとして活躍されたストロング小林)がボディビルダーとして活躍している記事を見かけることがありまして。それに刺激を受けたことが根本にあるのでしょうね。
――心の中の憧れに気付いてから実際にトレーニングを始めたと?
そうですね。そして1990年頃は日本が裕福になり、ただ仕事をするだけではなく「趣味なども広げていきましょう」ということが騒がれ始めた時代でもありました。それに運動も含まれていて、運動については会社も理解してくれて予算を出してくれることになったんです。そこで会社内に「明治製菓薬品総合研究所フットネスクラブ」を創設しましてトレーニングルームを設置してもらいました。そこからですね、本格的にトレーニングをやり始めたのは。
――そこではどんな感じのトレーニングをされていたのでしょう?
トレーニングルームを設置してから2年目くらいでしょうか。当時の部員は40人くらいだったのですがアメリカンフットボールをしてきた後輩が入ってきたんですよ。男の僕から見ても体脂肪のない筋肉質の綺麗な体をしていましてね。大変に憧れを抱いたものです。しかし当時の彼はベンチプレスでまだ100kgそこそこ。僕も彼と同じくらいの重量を挙げたいと思い、その彼と一緒にトレーニングを頑張りました。ほどなくして2人して100kg以上を挙げられるようになりまして。だからその頃のトレーニングは会社に出勤している日すべて。週5回トレーニングをしてましたね(笑)
――それはご熱心でしたね(笑)
ただトレーニングできるのは昼休みの僅かな時間です。食事の時間を除けば正味40分程度でした。
――では相当理論的にやられていたと?
全然! その頃はトレーニング理論なんて知りませんでした。たまたま『ターザン』なんかが創刊された頃だったのでそれを読んでいた程度。だからフォームなんかも今考えるとメチャクチャ。だけど、続けているとフォームも安定してくるんですよね。
ボディビルから大会に出場するように
――今の蜂須先生からは考えられないですが、それからは?
そんなトレーニングを重ねて、その彼が神奈川県ボディビル選手権大会に出場したんです。僕が41歳のときです。みんなで応援に行きましてね。結果は入賞したのを覚えています。さらに彼は翌年の大会にも出場したんですが、この大会のマスターズの部に、実は僕も出場したんです。このとき僕は42歳。これが最初のボディビル大会でした。しかし結果は残念ながら予選落ちでした。
――予選落ちとは残念なデビュー戦となりましたね
散々比較はされたんですが、この予選落ちに奮起させられ、入賞したい一心でトレーニングに励み、翌年の大会にも出場しました。そうしましたらマスターズの部で優勝。43歳のときです。そして一般の部でその彼も優勝し、明治製菓から一般とマスターズのダブル優勝。ここからボディビルにハマりました。
――予選落ちから優勝するまでの1年間は相当なトレーニングされたのですか?
この頃には昼休みの40分だけでなく、仕事終わりにも40分くらいトレーニングをしてました。でもトレーニング時間は増えても、トレーニングの内容は闇雲のまま。ベンチプレスにスクワット、それにアームカール程度。しかもまだ「二頭筋だけじゃなくて三頭筋も付けると腕が太く見えるよ」といった適当な時代。ラットマシンもなかったので一生懸命、懸垂をしていましたね。でも、今になって思うことは懸垂の仕方が間違っていましてね。両手幅の握る位置が近過ぎたのか、全く背中に効かず、腕にだけ負担が掛かるやり方をしていました(笑)
――それでも優勝ですか……驚くばかりですがその後のボディビルは?
トレーニングについては完全なブランクはないです。しかし神奈川で優勝した後、日本社会人選手権などの大会に出たりもしましたが、4位とか、12位とか、あまり良い結果を残せませんでした。というのも神奈川で優勝してしまったために慢心してしまったことが成績不振の原因でしたね。それにそもそも調整の仕方など、何をすればいいのか知らなかったですし。ほかにも様々な事情が重なったこともあり、ここで一旦ボディビルの大会に出るのはストップとなりました。
――トレーニングは継続されたと?
ボディビルの大会をストップしたらトレーニングに身が入らなくなってきました。そんな時、雑誌を見ていたらオシュマンズベンチプレス大会とか湘南ベンチプレス大会というのを見かけまして、46歳くらいから4~5年の間、湘南ベンチプレス大会に参加したでしょうか。ただ成績は良くても4位、5位といったところで、ベンチの記録は120kgを超えることはなかったですね。でもこの時代のライバルとは今でも友達関係が続いていて、改めて「いいもんだなぁ」とは思っています。
――パワーリフティングとの馴れ初めも興味深いですね。
その後、神奈川県のノーギア大会やジャパンオープンというパワーリフティング大会などにも出場したんですが、初めての出場ではスクワットで3本とも失格し、こちらでも挫折を経験したんです。そして40代のうちは目立った成績を出せないままでしたが、ずっとウエイトトレーニングは続けました。それ以来神奈川県大会は休んだのは1回だけです。しかしそのおかげで50~60代では神奈川県の一般で最優秀選手賞を3回獲りました。最初に最優秀選手を獲ったときのトータル485kg、現在では550.5kgですから私も進化していますが、神奈川県は若い人がどんどん伸びてきています。そして56歳のときにはようやくボディビルも復帰することが適いました。これは、名古屋に単身赴任を命じられた結果です。愛知県の大会に出ましたが、復帰してすぐさま愛知県マスターズ40歳以上級で優勝することができたんです。
――復帰してすぐに優勝とは凄いですね。
翌年、57歳のときには山口県で東アジアのボディビル大会が開催されましたが、ここでも優勝することができました。この辺りから自分でもトップに絡めるようになったと感じるようになってきました。そして58歳からは昭和大学の教授となりまして、昭和大学でもフィットネスクラブをつくり、学術分野に加え、ボディビル・パワーリフティングでも充実した日々を送らせてもらっています。2015年のエルサルバドルで行われた世界マスターズボディビル選手権大会では65歳以上級で2位の成績を頂きました。
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なんとも素晴らしいご経歴であるが、冒頭にも書いたように現役で国際大会での活躍を続ける蜂須先生。今回はこれまでの経歴を紹介したが、次回はマスターズチャンプのトレーニング方法や食事などを伺う。
医学博士・薬剤師・昭和大学薬学部客員教授。昭和大学の大学院を修了し明治製菓に入社。並行して昭和大学医学部にも研究生として籍を置き最短6年間で医学博士を取得。博士号の授与と同時に米・コネチカット大学へ留学。帰国後は再び明治製菓と昭和大学で研究に従事。抗うつ薬とBDNFの関係などに関わる研究をしてきた。現在もマスターズの世界記録を多数保持する現役のパワーリフター兼ボディビルダー。
インタビュアー・立華徳之真(たちばなのりのしん)
パフォーマー。陸上競技・体操・バスケットボール・フィットネス・トレーニング・ジュニアスポーツ・体育施設運営管理・サプリメント・スポーツボランティアなどのスポーツ専門資格を所持。また柔道整復師・美容師・登録販売者・診療情報管理士として美容健康領域および出版・イベント・教育・ITなどの実務をこなす。パフォーマーとしては殺陣やアクション、神経系コーディネーションや能力開発など様々な分野で活動しているハイブリッド。AVEX Entertainment