ボディビルのジムは底辺の拡大で全国的な様相を見せていった。1956年には松山巌氏を理事長にして関西ボディビル連盟が誕生。しかし、同時に柔軟性、運動能力、スピードを妨げるという批判も生まれていたため、1956年10月に行われた第2回ミスター日本コンテストでは第1回大会の外形的な肉体審査のみから、筋力と運動能力の審査まで行われることになった。
現・日本ボディビル・フィットネス連盟名誉会長・玉利齊が述懐する。
「運動能力が下がるとか、そんなことは絶対にないということを我々は世間に示したかった。当時、アメリカのオリンピック選手はスポーツにおいて筋力は重要なんだという認識でした。つまり、ウエイトトレーニングをして筋力をつくり記録を伸ばしていたから、我々も自信があるんですよ。ですからコンテストでは200m走や走り幅跳び、そしてソフトボール投げを審査に取り入れたんです。実際、かなり素晴らしい記録を出しまして、実証いたしました」
第2回大会で優勝したのは広瀬一郎(第1回大会で3位)。佐藤は200m走で28.5秒、走り幅跳び4.6m、ソフトボール投げ66mで、筋力テストではベンチプレスなどで好記録を残したとされている。
運動能力が発揮されていることを示したことで1957年8月の第3回大会からは筋力と運動能力テストをあえてする必要がないとして、外形の均整の取れた美しい肉体を競うようになった。この第3回の審査員にはマスコミが騒ぐほどのビックサプライズがあった。当時、国民的英雄だったプロレスラーの力道山が審査員席に座ったのだ。
この時の力道山はルー・テーズからインターナショナル世界選手権ベルトを奪取すべく大試合を控えていたので話題満載。しかも、かつてアメリカ仕込みのウエイトトレーニングでプロレス修行をしてきただけに、そのスピーチも説得力があって第3回大会(優勝者は宇土成達)は大いに盛り上がったものだった。
こうして毎年、ミスター日本コンテストが順調に開催されていくのだが、もう一つ学生ボディビルについて、ここで触れていこう。
1964年、東京オリンピックが開催され、ウエイトリフティング競技フェザー級で三宅義信が見事に金メダルを獲得した。またバンタム級・一ノ関史郎とミドル級・大内仁が銅メダルを獲得し、大いに気を吐いた。
先にボディビルとウエイトリフティングの間に微妙な対立が生まれていたことを記したが、東京オリンピックのウエイトリフティングの活躍に触発された早大バーベルクラブの幹部が窪田登のところに相談にやってきた。「他の大学と連携して関東学生ボディビル連盟を設立したい。ついては初代会長になってもらいたい」というものだった。
同連盟の結成会が渋谷の料理屋で開かれたのは同年12月6日。早大、慶大、日大、東洋大、東京外語大の5大学ボディビル部の代表者が集まった。理事長に慶大の鬼頭主将が就任し、各大学の主将が理事となった。
そして翌1965年6月27日、渋谷公会堂で第1回関東学生ボディビル連盟ボディビルコンテストが開催された。なんと同会場は東京オリンピックでウエイトリフティング競技が行われたところだ。学生ボディビルダーたちのウエイトリフティングに対するライバル心がここに会場を決めさせたのだろう(ちなみに日本学生ウエイトリフティング連盟設立は1955年)。優勝者は慶大の鬼頭(*関東学生ボディビル連盟の記録ではフルネームで記載されておらず慶大・鬼頭となっている)だった。
文/安田拡了