小さい頃から強い体に憧れていました【小泉憲治インタビュー(前編)】




自分のペースでできるウエイトトレーニングに惹かれました

――小泉さんは、会社を経営されています。会社のかじ取りをしながらトレーニング時間を確保するのはスケジュールの管理が大変だと思うのですが、どのようにされているんですか。

小泉 僕は15歳のときに、極真空手を始め、20歳ぐらいのときに、MMA(総合格闘技)に移りました。MMAだと、決められた日の決まった時間を確保する必要があります。例えば、毎週水曜日の7時から練習開始、9時で終了。残れる練習生は、10時までとか。
 決められたスケジュールだと、どうしても仕事との齟齬が生まれます。それで、仕事を優先すると、今週はできなかったとか、2週間練習行けてないってなることが多かった。でも、ウエイトトレーニングだけは、環境と自分の時間が、例えば夜中であろうと早朝であろうと空けば、仮に30分であってもできる、と思って、ウエイトトレーニング一本に絞ることにしたんです。

――そこから小泉さんのトレーニーとしてのキャリアが始まる訳ですね。

小泉 ええ。中でも特にパワーリフティングの魅力に取りつかれてしまいましたね。
 僕の周りにいる人たちよりは力は強い方だったので、これだったらいいところに行けるんじゃないかと思ったんです。ただ得意な方を選択した感じです。
 もうひとつ大きかったのは、僕が前に通っていたジムは、ベンチプレスの選手が多かったんですよ。女性のベンチプレッサーで、世界チャンピオンになったことのある方も在籍していました。身近に、世界チャンピオンがいるってすごいですよね。そういう環境に自分がいたというのも、パワーリフティングを本格的にするきっかけになりました。

――トレーニングだけに絞ると、筋肉を発達させるボディビル的な志向とより重いものを持ち上げるパワーリフティング的な志向、2つの方向性が出てくるものです。パワーリフティングからボディビル的な志向へと移っていったかきっかけを教えてください。

小島 やはり、(ボディビルダーの)加藤直之選手との出会いが大きいですね。以前に所属していたジムが、2011年の東日本大震災で、閉鎖してしまったんです。現在所属しているジム「チャンピオン平塚」のことは知っていたので、ここで練習をすることにしました。同じくチャンピオン平塚でトレーニングしていた加藤選手とは、以前からの知り合いだったんです。ボディビルの大会に出るには、あの体にならないと出る資格はないのかなと思っていたんですよ。そうしたら、このジムの人たちは、バンバン大会に出てるじゃないですか(笑)。そこまでの体じゃなくても地方大会とかに出場することができるんだみたいな、ちょっと僕の中での垣根が下がったというか、敷居が下がったという感じです。

――それで吹っ切れたように大会に出場されるわけですが、もともと筋肉や筋肉美への憧れはあったんですか。

小泉 ガキの頃から、それこそ「アイアンマン」なんて僕、15歳くらいで買っています。学校によく持っていったりしてました。潜在的な欲求は、その頃からあったのかもしれないですね。あの頃のアイアンマンって、たまに、格闘家のドン・フライとかケン・ヤスダさんとかのウエイトトレーニングを取材しているんですよ。僕もMMA好きだからね。MMAの選手の中でも筋肉質の人を見つけて、やっぱりこの人は強いみたいな、肯定してくれるものが欲しかったのかもしれないですね。

――ビジュアル的な部分も含めた強さへの憧れがあったんでしょうか。

小泉 あったかもしれないですね。僕の世代だと「ドラゴンボール」とか「グラップラー刃牙」とか、カッコいいと思いますからね。力強い漫画の主人公への憧れもあったのかもしれないですね。今、思えば笑っちゃいますけど、当時はそれが全てだったというかね(笑)。

――最初は、強くなりたいというのといい体になりたいというのはイコールだったんですか?

小泉 そういった体に憧れたというのと同時に、強くなりたいみたいな思いがあったのかもしれないです。カッコいい体をつくるというのは、格闘技の補強としてやっていたんですが、重なる部分は大きかったですね。

――トレーニングを始めるまでの簡単なキャリアを教えてください。

小泉 15歳で始めた極真空手がはじまりでしたね。それに大学の時に2年ほど海外に行ってたんですね。そこでUFCもたくさん観ました。彼らの力強さに魅力を感じて、MMA(総合格闘技)をやりたいなと思って、MMAに移りました。マルワジムという横浜にある総合格闘技のジムです。そこのジムを立ち上げる前に、簡易道場みたいな感じでやっていて、そのオープニングメンバーのような感じで練習をしていたんですが、全然花咲かずでした。

――ボディビルの話に戻ります。加藤さんとの出会いが小泉さんにとって大きかったようですが、どのようにして出会ったんでしょうか。

小泉 もともと加藤選手は平塚のスポーツクラブでトレーナーをしていたんです。僕は、そこの会員だったんです。彼の話にはもちろん聞いていて、「ボディビルやっている加藤さんですか」みたいな感じで仲良くなって。もう十何年の仲間ですね。

――加藤さんとの出会いが競技を始めるきっかけとなりましたが、ご自身としても、ひたすら鍛えることで満足するわけではなく、競技性を求めていですね?

小泉 あったかもしれないですね。やはり、もとからそういうのが、優劣が付くというのが好きかもしれない。負けず嫌いというところもあるので。やっぱり、何かに対して勝つという気持ちを持つことは大事ですね。去年の自分に対して勝つとか、大会の出場者に向けて勝つとか、そういった何かに勝つということの方が僕の中では強いかもしれないですね。

――大会に初めて出たとき、調整はうまく進められましたか。

小泉 当時はすごく僕も体重が多かったので。93㎏くらいから減量スタートして、1カ月とか1カ月半後に試合だったんですよ。減量の辛さを思い知りましたね。そのときは全部ディプリート(カーボカット)で体はフラフラ、全然体重も落ちず筋肉はユルユルのまま出ました。散々な初出場でしたが、それも含めていい経験だったかもしれないですね(笑)。

――フィジークにはビルダーとしての経験値を上げるために出場したのでしょうか。

小泉 悪い意味ではないのですが、フィジークってちょっと「チャラついている」ってイメージが僕の中にはあったんです。カッコイイ、といいますか。ボディビルはちょっと汗臭いというイメージなんですけど、僕はその汗臭さが持つ「ブラッド&ガッツ」みたいな部分に憧れて、この競技を始めているので、やはりフィジークに対して、色眼鏡で見る部分がありました。でも、実際に出てみたら、2015年の関東オープンでは2位に終わった。そこで、トップに行きたいという欲求が出てきました。

――今後、展望としてはフィジークを経てボディビルの方でやっていきたいとうかがいました。

小泉 一応、ボディビルの大会をメインにしているのですが、結果が散々なもので、誰にも認知してもらっていないんです(笑)。僕の中では、「ミスター神奈川」という大会をとりあえず視野に入れてます。

次回は、ボディビルへの熱い思い、そして会社を運営しながら時間を作るコツをうかがいます!

小泉憲治(こいずみ・けんじ)
神奈川県平塚市出身。177㎝75kg。2016年第2回関東フィジーク選手権オーバーオール優勝。2017年オールジャパン・メンズフィジーク選手権40才以下176cm超級2位。